平治の乱
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平治の乱(へいじのらん)は平安時代の平治元年12月9日(1159年1月19日)より発生した、院の近臣らの対立により起きた政変である。
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[編集] 乱の原因
1156年の保元の乱に勝利した後白河天皇は、同年閏9月に『保元新制』と呼ばれる代替わり新制を発令した。この新制は、第1条に「九州の地は一人の有なり。王命の外、何ぞ私威を施さん。」と王土思想を強く宣言し、荘園整理令を含むものだった。この荘園整理令は、全国の荘園・公領を天皇の統治下に置くことを意図しており、これにより荘園公領制の成立へ大きく進むこととなった。翌年にも後白河は35箇条の新制を発布しているが、こうした一連の政策展開は、後白河の側近である藤原通憲(信西)が立案・推進したものだった。
権威の確立に努めた後白河は、1158年に実子の二条天皇へ譲位し、自らは治天の君となって院政を開始した。しかし、二条天皇は若くして英君との評価が高く、少なくない貴族らが二条へ接近していき、宮廷は内部分裂の様相を呈した。
後白河院政を後見した信西は、平清盛と結んで院政を支える武力とし、院政の安定を図った。信西は宮廷随一の教養高い人物だったが、他者への評価が非常に厳しく、主君である後白河を「暗主」と呼んだことさえあった(ただし、これは後白河上皇の父であった亡き鳥羽法皇ら宮廷人の多くが似たような見解を抱き、二条天皇側についた廷臣もこうした視点に立つものであった)。当時、後白河の乳母の甥に当たる藤原信頼が院近臣として台頭しつつあり、ある時右近衛大将の官職を望んだが、その人物を見た信西は信頼の申し出を一蹴した。これにより、信西との対立を深めた信頼は、藤原成親、源師仲らと結んで、藤原経宗、藤原惟方ら二条天皇派と連携していった。さらに、後白河院政へ不満を持つ源義朝を自派の武力として傘下へ引き入れることに成功した。
平治1年(1159年)後半になると、特に院の近臣である信西派・信頼派間の緊張関係が高まっていき更に第3勢力である二条天皇派も絡んで、同年12月にその緊張が限界を迎えた。
[編集] 乱の経過
信西派の武力を担当する平清盛が熊野参詣へ出発した直後の旧暦12月9日、藤原信頼・源義朝一派は二条天皇派の了解を得た上で、三条殿御所を襲撃して二条天皇を確保、さらに院御所へ押し寄せ、後白河上皇の確保にも成功した。この事態に信西は逃亡し、山城国宇治太原から伊賀国の堺の田原の山中に隠れていたが、ほどなく捕えられ殺害された。
政権を掌握した信頼・義朝らは勝手に除目を行い、信頼は右近衛大将、義朝は播磨守になり、自派の貴族へも官位を濫発した。その最中、東国より兵を率いて馳せ上った義朝の長男義平は直ちに清盛の帰路を討ち取るよう主張したが、信頼はその必要はないと退け、清盛の帰洛まで空しく時間を浪費することとなる。
同月17日、帰京して六波羅の館に入った清盛は信頼に名簿(みょうぶ)を差し出して降伏を装って油断を誘い、その隙に経宗と惟方を調略した。そして、25日夜、清盛方が二条大宮に火を放ち注意を引き付けているうちに、経宗と惟方は後白河と二条を内裏から脱出させた。二条は六波羅に迎えられ、後白河は仁和寺に入った。
翌26日、清盛に信頼・義朝追討の宣旨が下された。清盛の嫡男重盛、弟の頼盛、経盛が3000騎を率いて内裏へ向かった。源氏方は2000騎の軍勢で、信頼が待賢門、義朝が郁方門、源光保、源光基らが陽明門を守った。
重盛が待賢門に迫ると怯えた信頼は逃げ出してしまう。代わって義平が防戦に出て激闘になり、御所の右近の橘、左近の桜の間を7回も重盛を追い回した。この時、源義平19歳、平重盛23歳、源平の若き御曹司同士の白熱した戦いは『平治物語』のハイライトの一つとされる。数刻後、重盛は退却し、義朝が守る郁方門を攻めていた頼盛も撃退される。
義朝、義平が追撃して内裏を出ると、清盛の弟教盛の軍勢が陽明門に迫り、光保、光基は門の守りを放棄して寝返ってしまった。教盛は内裏に入り門を固めてしまう。退路を断たれた源氏軍は六波羅へ突撃する。だが、臆した信頼は途中で逃げ出した。さらに河内源氏の源義朝とは別の摂津源氏で大内守護の源頼政が独自行動をとり平清盛に与する。平氏軍は六波羅を出撃し、両軍は六条河原で激戦を展開するが、疲労した源氏軍は遂に敗走した。戦いは平氏の勝利に終わる。
[編集] 戦後
乱後に藤原信頼は斬首され、義朝は戦線離脱し、東国へ落ち延びる途中、尾張国内海荘(愛知県)で長田忠致に殺害された。嫡子の源義平は都に戻り、やはり都に潜伏して生き延びていた義朝の郎党の志内景澄と共に密かに清盛暗殺の機会を狙うが、密告により捕縛され殺される。源義隆、源重成、源季実ら義朝に従った武将達も死を免れず、義朝の三男頼朝など生き延びた河内源氏一族の一部も、京都を駆逐され全国に雌伏することになる。
しかしこうした個々人の命運以上に、平治の乱はその後の政治史に対して大きな影響をもたらした。乱終結の翌月、二条天皇は故近衛天皇の后だった藤原多子を急遽、后へ迎えることとした。これにより二条は、近衛の跡を継ぐ皇位継承者であることを示し、乱後の混乱の中で自らの正統性を主張した。後白河は二条の婚姻に不快感を見せ、両者の確執は深まっていった。この状況下で、平清盛は上皇を侮辱した罪で天皇側近の藤原経宗・惟方を流罪にする一方、後白河院政の停止と天皇親政を支持するなど上皇・天皇の片側のみに与することなく、慎重な立場を取った。乱勝利の最大の貢献者である清盛は、1160年、参議に任命され、武士で初めて公卿(議政官)の地位に就いた。清盛は、これを足掛かりとして、また上皇と天皇を両天秤にかけながら、急速に昇進していき、平氏政権を形成していったのである
[編集] 文学作品
平治の乱を題材にした文学には、作者不明で全3巻の軍記物語である「平治物語」があり、平治物語を題材に絵巻物の「平治物語絵巻」が描かれる。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- ふょーどるの文学の冒険 保元物語、平治物語の現代語訳