鐚銭
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鐚銭(びたせん)とは、日本の中世後期に流通した銭貨の中で、品質が著しく劣悪なものをいう。悪銭とも。
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[編集] 経緯
日本では、鎌倉時代後期ごろから貨幣の流通が活発化したが、主に中国で鋳造された中国銭が流通していた。これらの中国銭は、中国(宋・元など)との貿易を通じて日本にもたらされたが、日本でもこれらの貨幣を私的に鋳造する者が現れた。これを私鋳銭(しちゅうせん)という。私鋳銭は、一部が欠落したもの、穴が開いていないもの、字がつぶれて判読できないものなど、非常に粗悪なものが多く、商品経済の現場では嫌われる傾向が強かった。そのため、これら粗悪な銭貨は鐚銭と呼ばれ、一般の銭貨よりも低い価値とされるようになった。
室町時代に入り、明が日本との貿易用に鋳造した永楽通宝などが日本国内で流通するようになると、明の江南地方で作られた私鋳銭や、日本国内で作られた私鋳銭も次第に混入していった。そうした私鋳銭ばかりでなく南宋の戦時貨や明銭じたいも不良銭がまじるなど品質劣悪なものがふつうだったため、これらを総称して「悪銭」といった。また、こうした悪銭は良質な「精銭」とくらべ低価値に設定されたり、支払時に受け取り拒否されることが多く、これを撰銭(えりぜに)といった。時には撰銭が原因で殺傷事件が起こることもあった。だが、粗悪な渡来銭や私鋳銭の流通量は増大し、後に室町幕府の14代将軍・足利義栄が将軍就任の御礼に朝廷に献上した銭貨や同じく織田信長が正親町天皇の儲君誠仁親王の元服の際に献上した銭貨が鐚銭ばかりであると非難されたが、これは彼らが朝廷を軽視していたというよりも鐚銭ばかりが流通していて権力者でさえ良質な銭貨が入手困難であった事を示している。
そのため、16世紀になると幕府や守護大名、戦国大名たちは撰銭を禁ずる撰銭令(えりぜにれい)を発令して、円滑な貨幣流通を実現しようとした。しかし、民衆の間では鐚銭を忌避する意識は根強く残存し、江戸時代に幕府が安定した品質の寛永通宝を発行し、渡来銭や私鋳銭を厳しく禁ずるようになると、鐚銭は見られなくなり、撰銭も行われなくなっていった。
[編集] 流通背景
当時の考え方では、外国通貨はまだ公的に保証されたものではなく、それ自体ただの代用貨幣にすぎなかった。つまり、経済に重大な悪影響を及ぼさないものであるかぎり、鐚銭の作成もなんら犯罪とする理由はなかった。権力者はただ上納銭の撰銭を命じたり、民間の撰銭を容認したにすぎず、皇朝銭が公鋳されていた律令時代のように厳しく通貨偽造の罪が問われてはいない。
悪貨が流通するとインフレが起きるのは常識であるが、中世の日本ではそうはならなかった。これを理解するのは鐚銭そのものよりも、正貨の変質を見る必要がある。
もともと日本では唐・北宋時代に作られた良質の銭(精銭)が通行していたが、中国文明の凋落にともない、南宋戦時貨や明銭など、鐚銭と混同されたきわめて粗悪な渡来銭が安価で大量に流入し、精銭が撰銭によって市場から急速に姿をけしていった。これは「100円玉が10円や5円玉に置き換わった」と考えてもいい。100円玉のにせものは困るが、5円玉の代わりにへんなコインが混じっていても、それほど腹はたたないものである。信用の低い少額貨幣の場合、その価値は調達コストや品位割れのラインに非常に近い。つまり、本物であろうとあるまいと、地金の値打ちによって保証されている部分がおおきいからだ。
悪貨発行によるインフレ要因はほとんど現地中国で吸収され、日本では地金にちかい少額貨幣として安価な元手でたやすく手に入れることができた。このような粗悪な渡来銭が専ら流通していったため、結果として価値が似通った鐚銭との混用を容易にしたのだといえる。
さらに、経済発展に加え明の海禁などによって渡来銭の供給がむずかしくなると、こんどは通貨総量が減って銭不足が生じ、代替貨幣としての鐚銭の需要も増えていくことになる。
[編集] 鐚銭のもつ意味
中世日本では皇朝十二銭の失敗でも知られるように、いまだ国家が安定した信用を伴う銭を発行できるしくみが整っていなかった。これは中国でも同じことで、やがて中国が不良銭問題の解決に見出したのは清末の欧州銀貨であり、明治日本が同品位の銀貨を「円」と定めたことが今日行われている元(圓)およびウォン(大朝鮮国発行の円)のルーツである。朝鮮では民族的に「穴あき銭」にこだわったため、ちょっとした取引にも銭運搬用の馬がひつようなほど銭の信用が堕ち、やがて日系銀行の信用為替が重宝されるようになった。
このような経済環境において、中世日本が公定貨幣を放棄し、渡来の代用貨幣による自由な変動相場制を取ったのは、この時点では賢明な態度だったと思われる。明では公鋳すればするほど、これをはじめに不当な高値で強要される現地商人に深刻な被害を与えたからだ。
もちろん明のつごうで通貨供給のコストや量が急変することは好ましいことではない。国内における鐚銭はその緩衝の役割を果たし、海禁政策など、デフレ圧力によって粗悪な渡来銭が不当な値上がりをするような場面を救った。
ただし、日本産の鐚銭が国外に渡って明などの相場に大きな悪影響を与えた形跡はない。桃山時代に長崎貿易銭として永楽通宝などの比較的品質の良い贋物を出荷した例もあるにはあったが、その時点ではすでに粗悪な中国貨幣は供給コストに近い底値におちいっていたからだ。同じような質のコインであったなら、中国商人もけして受け取りはしなかったはずである。
従来、鐚銭はまがい物として軽視されていたが、その多様な役割やそれを生み出した中世のひとびとの血の通った暮らしぶりに、あらたな注目が集まっている。