陸績
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陸績(りくせき、187年 - 219年)は、中国の三国時代、呉の武将・学者。字は公紀。陸襃の孫、陸康の子。
呉郡呉の人。父は陸康で、陸遜と同族である。父・康は孫策に攻められて降伏し、その心労から病死したが、績は孫策、そしてその死後は孫権に仕えた。もっとも、これは当時としてはごく当たり前の状況であり、特に難ずるにはあたらない。風貌は凛々しく、博学多才の読書家であったと言われている。政治手腕に優れていたが、正しいと思うことは何でも諫言する清廉な性格を孫権に疎んじられ、中央から遠ざけられて鬱林太守の地位に左遷された。そのショックから、若くして死去した。二十四孝の一人に数えられる。
幼少の頃の逸話(二十四孝)として、袁術の所にいた際に食事として出された蜜柑を母親に食べさせたいとの思いから、隠し持ち帰ろうとした話が残っている。
天文と暦学に通じていた陸績は、孫権の命によって当時最新の暦を作った。これによって、呉は魏よりも精確な暦を使用することができ、同時にこれは、魏に対する牽制ともなった(暦の作成は皇帝のみの保有する権利であったため)。「渾天図」を作り、『周易』『太玄』に注を作った。また、これらの知識から自らの死ぬ日を予測し、その六十年後に天下が統一される事を予言していた。
三国志演義では、赤壁の戦いで孫権と曹操に戦わせるために孫権を説得させる使者として訪れた諸葛亮に対し、曹操に降伏すべきと思っていた陸績が論戦を挑むものの、諸葛亮に論破されてしまった。
陸績には宏、叡という二男と鬱生という女がいた。宏は会稽南部都尉、叡は長水校尉となった。 鬱生は績が鬱林へ赴任した後に生まれ、張温の弟・白に嫁いだ。聡明な慎み深い女性で、後に張白が政争に巻き込まれて配流された後も、毅然と夫への貞操を守り抜き、決して再婚しようとしなかったという。