青葉笙子
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青葉 笙子(あおば しょうこ(本名:小野寺 貞子、おのでら ていこ)、1918年(大正7年)3月21日 - )は、「鴛鴦道中」などで知られる昭和時代に活躍した歌手。
宮城県仙台市の裕福な家庭に生まれる。幼い頃に母を亡くし、祖父母に育てられる。実家にあった蓄音機から流れる流行歌の世界に憧れるようになり、特に後の恩師となる関種子の歌う「嘆きの夜曲」を聞き、歌手を志すようになる。
昭和11年、コロムビアが松竹とタイアップして、音丸の「下田夜曲」の宣伝のために開催した歌謡コンクールに応募し優勝。このコンクールには、後に活躍する若き日の岡晴夫や近江俊郎の姿もあったが、女性の歌であったためか、いずれも落選している。優勝した青葉は、小野寺貞子の本名で、コロムビアの廉価盤であったリーガルレコードから同年7月に「月の枯尾花」でデビュー。ちなみに小野寺時代の「愛してよ」は昭和初期に流行した「思い直して頂戴な」の替歌である。数曲を吹き込むが、作曲家・レイモンド服部(服部逸郎)から、「コロムビアには偉い歌手が多過ぎる。鶏口となるも牛尾となるなかれですよ。」と説得され、ポリドールが廉価盤として立ち上げたコロナレコードに移籍。昭和12年コロナから再デビューする。コロナの幹部であった浪曲作家・秩父重剛から、地元仙台の青葉城にちなんで青葉笙子の芸名を命名された。そしてこの年の「関の追分」が、まずまずのヒットとなりソロとして初のヒット曲をもつ。
流行歌手としてデビューした青葉笙子は、音楽の基礎を身に付けるため、東洋音楽学校に進学。入学試験の際、職業歌手であるために、登校が少なくなるのではないかと指摘されたが、「真面目に勉強します」と作曲家・杉山長谷雄に懇願して入学を許された。在学中は関種子に師事し、声楽を学ぶ。後に仕事が忙しくなったため、中退している。コロナでは看板歌手として「さすらい日記」「小夜の中山」「御神火夜曲」などをレコーディングするが、コロナの経営が1年で悪化し、昭和12年暮れには、ポリドールに吸収合併され、青葉笙子も他の専属アーティストと同様にポリドールに移籍。移籍後間もなく、人気歌手・上原敏と浅草〆香のために用意されていた「鴛鴦道中」を、藤田まさとの発案で青葉笙子が上原の相手役に起用され、大ヒットとなる。
「鴛鴦道中」が大ヒットした昭和13年には、「上海だより」のアンサーソングとして作られた「銃後だより」が好調なヒットとなり、他にも「夢の蘇州」「元禄ぶし」「椿咲く島」などのヒットが続きスター歌手の仲間入りを果たした。{鴛鴦コンビ}として人気を博した上原敏とのコンビで、たびたび中国大陸に将兵慰問にも訪れている。昭和14年以降も、「砂丘を越えて」「二人の大地」「千曲流れて」「故郷慕えど」「夢の北京」などのヒットを続け、昭和15年には「木曽の旅唄」、そして上原敏らとともに松竹映画「弥次喜多六十四州唄栗毛」、「弥次喜多怪談道中」に出演し、主題歌「鴛鴦春姿」「青空御殿」などを歌っている。「鴛鴦道中」の大ヒットは勿論のこと、ソロ・ヒットの「関の追分」「銃後だより」「千曲流れて」などは長く愛されている名曲だ。
昭和16年、華族であった平松時善子爵と結婚するにあたり、芸能界からの完全な引退を決意。「佐渡の故郷」のレコーディングを最後にポリドールを退社して、家庭の人となった。終戦後、臣籍降下により華族制度が廃止されると、青葉笙子は、生活のため、歌手に復帰し、昭和22年、古巣のポリドールにカムバックした。戦死した上原敏を偲び、「春雨草紙」や東海林太郎とのデュエットで「鴛鴦道中」を再吹き込み。他にも「飯場の月」「七色の夢」「愛怨肌模様」「春風道中」などをレコーディングしているが、ポリドールの盤質が粗悪であったことや、一旦引退してしまっている間に新たな女性歌手が次々と登場していたためヒットに結びつく作品はなかった。昭和25年「七色の花」が映画主題歌として唄われ話題をよび昭和26年には再開したタイヘイレコードに移籍。昭和27年には「黒いトランク」「夜汽車の窓で」が久しぶりにヒット作品となった。タイヘイに海外からマーキュリーの資本が入った以降も歌手活動を続けていたが、昭和31年、鈴村一郎と唄った「ひょっとこ踊り(6月発売)」を最後に再び引退した。またその間、平松時善とは協議離婚。子供を引き取り、子育てに専念することになる。
昭和40年代のなつメロブームでは、東京12チャンネルの「なつかしの歌声」に出演する一方、様々な愛好家が作ったなつメロのサークルに気軽に顔を出し、身近な往年のスターとして、惜し気なくその衰えぬ歌声を披露した。藤田まさと記念LPに「鴛鴦道中(共演:高田浩吉)」、「妻恋旅姿」を久しぶりにレコーディングした。また、自分をスターに育ててくれた上原敏への恩義から、上原の顕彰活動を続け、上原敏の未亡人松本澄子さんとたびたび上原の終焉の地であるニューギニアを訪れたり、毎年夏に靖国神社で開催される「みたま祭り」には日本歌手協会からレギュラーとして出演し、慰霊活動を行った。平成に入ってからも、東京上原敏の会会長として活動。さらには、テレビ東京「夏祭りにっぽんの歌」や「歌手協会歌謡祭」、NHKラジオ「歌謡大全集・上原敏」などに出演。自らの歌手生活を集大成した「昭和の流れの中に 青葉笙子・歌の回顧録」(柘植書房新社)を出版するなど活躍を続けるが、脳梗塞に倒れ、病気療養を余儀なくされた。平成17年にはテレビ東京「昭和歌謡大全集」に出演し、元気な姿を見せている。