高定
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高定(こうてい、生年不詳-224年)は、三国時代の越嶲郡のタイ族系叟族の酋長。または高定元とも呼ばれる。
[編集] 略要・人物
蛮族の軍を率いて越嶲太守の焦璜を殺害した。やがて雍闓に呼応し、共に蜀漢に謀反を起こした。だが李平(李厳)の漢軍と戦って、大敗した。後に雍闓と内訌を起こして、部下に命じてこれを殺害した。間もなく諸葛亮と李恢率いる漢の本隊と激突して再度敗れた。その後、間もなく捕らえられて諸葛亮によって処刑され、晒し首にされたという。諸葛亮のこの処断に憤激した高定の旧部下は226年以降も漢に対して造反を起こしたという。その度に西南夷に滞った李恢が鎮圧したということである。
また演義では、越嶲太守として登場した。彼の武将の鄂煥が諸葛亮の捕虜となり、諸葛亮の「離間の策」によって、同盟者の建寧太守の雍闓と牂柯太守の朱褒との仲を裂く役目を果した。やがて、雍闓を鄂煥が討ち取り、高定は諸葛亮に帰順した。だが諸葛亮に疑われ「ならば、朱褒の首級を取って参れ!」と命じられ、彼は朱褒を攻め寄せて滅ぼしたという。やがて諸葛亮から「忠義者である!」と絶賛され益州三郡を任せられたという。この逸話はもちろん架空である(正史では朱褒の官職は蜀の牂柯郡丞だったらしい)。