アルフレッド・ノーベル
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アルフレッド・ノーベル(Alfred Nobel, 1833年10月21日 - 1896年12月10日)は、ダイナマイトの発明で知られる化学者、実業家。ノーベル賞の提唱者。スウェーデンのストックホルム生まれ。
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[編集] 概要
彼は、知人の化学者アスカニオ・ソブレロ (en:Ascanio Sobrero)が発明した爆薬、ニトログリセリンを、初めて実用化することに成功。さらにこれを改良し、安全に使えるようにしたダイナマイトを発明した。
彼はこれを工事現場での岩盤の破壊など、作業の効率化用として作ったが、戦争で人を殺す爆弾として使われているのを知り悲しみ、遺言に、ダイナマイトの発明や油田開発で得た莫大な財産を運用して、科学などに貢献した人に賞金を与えるよう言い残した。それが、ノーベル賞である。
武器商人や死の商人と呼ばれることが多いが、実際に最初に手がけた事業は武器製造であり、また、最後にはじめた事業もまた武器製造であった。
「理想的な平和主義者」であり、「現実的で非情な金融家」という二面性を持つ。戦争反対を唱えながらも、武器製造を行い、その利益により平和貢献の活動をした。
また、双方が過剰な武器をもつことにより、軍事バランスを保つことで、戦争を避けようともしたと言われる。戦争そのものを無くす事は不可能であり、より現実的な方法で、理想を作り上げたのである。彼のもつ二面性は、まさしく「現代のかかえる矛盾」そのものと言えよう。これは「ノーベルは全てを破壊する爆薬があれば、どの国も戦争をしなくなるだろうと考えダイナマイトを発明した」というエピソード(真偽に関わらず)からも汲み取れよう。
[編集] 略歴
生まれたとき、父親のイマニュエル・ノーベルは破産したばかりだったが、家族と別れてロシアで興した事業が成功。1842年には父親の住むサンクトペテルブルグに向かい、のちに親の事業を手伝う。ここでの主な仕事はロシア軍を相手にした機雷の製造・設置だった。やがてクリミア戦争が起きると、軍から大量の注文があり、大儲けをするが、1853年、戦争終結と同時に注文が止まったばかりでなく、軍がそれまでの支払いも延期したため、事業はたちまち逼迫。父は1859年に再び破産する。
ノーベル本人は、1855年にニトログリセリンのことを知る。しかし、この爆薬は、狙って爆発させることが難しいという欠点があり、起爆装置を開発。1862年にサンクトペテルブルグで水中爆発実験に成功。1863年にはスウェーデンで特許を得る。1864年には爆発事故で弟エミール・ノーベルと助手が死亡。ノーベル本人は怪我を負う。この事故に関してはノーベル本人は一切語っていないが、父イマニュエルによれば、ニトログリセリン製造ではなく、グリセリン精製中に起きたものだという。
1865年、ニトログリセリンの製造業を開始する。1866年、ダイナマイトを発明する。1867年、ダイナマイトに関する特許を取得する。1871年、ダイナマイト生産を開始する。
1876年には結婚相手を見つけようと考え、女性秘書を募集する広告を出し、ベルタ・キンスキーという女性を候補とする。しかし、ベルタは既にアーサー・フォン・ズットナーという婚約者がおり、ノーベルの元を去ってフォン・ズットナーと結婚した。この2人の関係はノーベルの一方的なものに終わったが、キンスキーが平和主義者だったことが、のちのノーベル平和賞創設に関連していると考えられている。またアーサー・フォン・ズットナーは著名な数学者であり、このためノーベルは数学賞を設置しなかったという俗説がある。
同年、当時20歳のゾフィー・ヘスと出会い、交流が始まる。ゾフィーには218通の手紙を残した。しかし、1891年、ゾフィーが他の男の子を宿していることが分かると、2人の関係は急速に冷えた。ノーベルの死後、ゾフィーはこれらの手紙をノーベル財団に高額で買い取らせようとして成功したため、すべてが残っており、また、ノーベル財団により公開もされている。
1879年、兄ルードヴィとロベルトがロシアでナフサ精製会社を設立。ノーベル本人もこの会社に援助をした。
1884年、フランス政府からレジオン・ド・ヌール章を授与される。
1890年、知人がノーベルの特許にほんのわずか変更を加えただけの特許をイギリスで取得。ノーベルは話し合いでの解決を希望したが、会社や弁護士の強い意向で裁判を起こす。しかし、1895年、最終的に敗訴が確定する。
1894年、武器製造工場を買い取り、武器製造業に進出する。
1895年、ノーベル賞設立に関する記述のある有名な遺言状を書く。
1896年12月7日、サンレモにて脳溢血で倒れる。倒れる1時間前までは普通に生活し、知人に手紙を書いていた。倒れた直後に意味不明の言葉を叫び、かろうじて「電報」という単語だけが聞き取れたという。これが最後の言葉となった。急ぎ親類が呼び寄せられるが、3日後に死亡した。生涯独身であり、子供はいなかった。死の床にも召使がいただけで、駆けつけた親類は間に合わず、誰もいなかった。
[編集] 遺産
莫大な遺産があったため、遺産相続をめぐっては、兄弟やその子らと当然のようにトラブルになり、指名された相続執行人は苦労した。また、ノーベル本人は、1890年に起こした訴訟の経験から弁護士を信用しておらず、直筆で自分だけで遺言状を書いたため、その内容には多くの矛盾をはらんでおり、このことも相続執行人を悩ませた。
最後に書かれて、最終的に有効とされた遺言状には、遺産を使って賞を作り、科学技術、文学、平和など合計5部門に貢献した人物に賞を贈るように記載されていた。ノーベル本人はこの賞に名はつけていないが、現在この賞は「ノーベル賞」と呼ばれている。
最終的にノーベル財団が設立され、ノーベルの意思は次の次の世紀まで伝えられることになった。賞についての詳細は、ノーベル賞の項目を参照のこと。
なお現在もノーベルの名を冠する会社は欧州各地にあり、爆薬製造や化学工業を行っている。特にドイツのダイナマイト・ノーベル社は、対戦車兵器パンツァーファウスト3やケースレスライフルG11用弾薬など、現在も兵器の開発・製造を行っている。
[編集] その他
日本の菓子製造会社で大阪市生野区に本社があるノーベル製菓はノーベルの名を冠しているが、ノーベル本人とは全くの無関係である。1949年に湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞した際にノーベルの登録商標を得、1959年に社名をノーベル製菓に変更しているためで、単にノーベル賞に因んだ社名を付けただけである。
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