アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
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アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine de Saint-Exupéry, 1900年6月29日 - 1944年7月31日、リヨン生まれ)は、フランスの作家・飛行機乗り。郵便輸送のためのパイロットとして、欧州-南米間の飛行航路開拓などにも携わった。読者からは、サンテックスの愛称で親しまれる。
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[編集] 人物
イエズス会の学校を経て、スイスのフリブールにある聖ヨハネ学院では文学にいそしむ。
兵役(志願)で飛行連隊に所属。尋常ならざる経歴で軍用機操縦士(士官)となる。退役[1]して自動車販売員などに就業した後、民間航空界に入る。
1926年、26歳で作家として本格的にデビューし、以後、自分の飛行士としての体験に基づいた作品を発表(極めて寡作)。著作は世界中で読まれ、有名パイロットの仲間入りをしたが、仲間のパイロットの間では反感も多かった。後に敵となるドイツ空軍にも信奉者はおり、サン=テグジュペリが所属する部隊とは戦いたくないと語ったドイツ人もいたという。
第二次世界大戦で予備召集され(1939年9月4日)、トゥールーズで飛行教官を務めた。前線への転属を希望し、コネを使って多くの反対を押し切り実現。戦闘隊は希望せず、能力的にも無理だった。爆撃隊も忌避したので、オルコントに駐屯する偵察隊(II/33 部隊)に配属された(1939年11月9日)。部隊は多大の損害を受けアルジェリアへ後退したが、ヴィシー政権がドイツと講和。動員解除でフランス本土へ戻った後、アメリカへ亡命[2]。
第二次世界大戦中、亡命先のニューヨークから、自ら志願して再度の実戦勤務で北アフリカ戦線へ。原隊である II/33 部隊(偵察飛行隊)への復帰を果たす(1943年6月)。新鋭機に対する訓練期間を経て実戦配置されたが、すぐに着陸失敗による機体破損事故を起こして飛行禁止(事実上の除隊)処分を受ける(1943年8月)。あれこれ必死に画策して、復帰を果たした。爆撃機副操縦士としての着任命令(I/22部隊)を無視して、サルデーニャ島アルゲーロ基地に進出していた古巣のII/33 部隊にもぐり込む(1944年5月)。部隊は後にコルシカ島に進出。1944年7月31日、フランス内陸部(グルノーブル/シャンベリー/アヌシー)を写真偵察のため、単座双発双胴のロッキード F-5B( 戦闘機 P-38 ライトニングの偵察機型) を駆ってボルゴ飛行場から単機で出撃、消息を絶った(最終階級は少佐)。
[編集] 乗機の引き揚げ
行方は永らく不明とされていたが、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの名と、妻コンスエロの名(括弧書き)、および連絡先(c/o)としてアメリカの出版社名・所在地が刻まれた、ブレスレットとみられる銀製品がトロール船によって発見された。(1998年9月7日)
同海域には沈船や墜落機の残骸が多数あるが、問題の P-38 型機の残骸(車輪を含む左エンジンナセル)は、地中海のマルセイユ沖リュウ島近くで地元のダイバーにより発見されていた[3]。しかし、この海域はサンテックス機の墜落現場候補とは思われておらず、詳しく調査されることはなかった。上記ブレスレットの発見を受けて、精力的かつ広範囲な探索が行われた結果、2000年5月24日上記残骸を再度調査・撮影して F-5B 型機であることを確認。2000年5月26日マスメディアに意図的に漏洩したためフランスでは大騒ぎになり、世界中に知られるところとなった。
遺産相続者の反対その他の事情で引き揚げは禁止されていたが、2003年になって、仏米間の政治的な状況の変化も絡んで正式な回収許可が下り、前記の左エンジンナセルが引き揚げられ、さらに、広い海域に散乱していた多くの破片が数ヶ月かかって拾い集められた。回収物は丹念に付着物を取り除き、洗浄して、左エンジンカウリングに刻まれたロッキード社の製造番号により彼の乗機であることが明らかとなった[4]。
どの破片にも被弾・火災の跡は認められないものの、機体の損傷が激しいために墜落原因は不明であり、自殺説すら飛び交う。元々、パイロットとしての能力は高くなく、墜落や不時着失敗を繰り返すほどの操縦技術であったことは当時から知られており、単純な操作ミスで誤って墜落したという説もある。
従来から疑問視されていた「哨戒飛行中のドイツ軍戦闘偵察機Fw190Dに撃墜された」という説は、墜落地点がまったく異なり、また、機体状況も銃撃を支持しないことから、ほぼ完全に否定された。
[編集] 作品
デビュー作『南方郵便機』(Courrier Sud、1929年、小説)は、男女間の恋愛を描いた唯一の作品。構成技法その他の理由から、あまり高く評価されていない。
『夜間飛行』(Vol de Nuit、1931年、小説)と『人間の土地』(Terre des Hommes、1939年、既発表の体験記や随筆の寄せ集め)はベストセラーとなり、彼の代表作として高く評価され、現在でも世界中で広く愛読されている。
『戦う操縦士』(Pilot de Guerre、1942年)は、書かれた時代背景が、その存在意義と評価を決めた。ヒトラーの『我が闘争』に対する「民主主義の側からする返答」として高く評価され、米国で先に出版された英語訳『アラスへの飛行』(Flight to Arras、1942年)はベストセラーとなった。占領下の祖国フランスでも制限付き(初版発行部数2000部余り)で発売されたが、すぐに発行禁止となり、地下出版物(リヨン版)として反ナチ派の間で読み継がれた。
『星の王子さま』はニューヨークでは1943年4月にレイナル・ヒチコック社から英語訳 The Little Prince とフランス語版 Le Petit Prince が、祖国フランスでは死後の1945年11月[5]にガリマール社から[6] Le Petit Prince が出版された。自身で描いた素朴な挿絵も長く愛されている。
アニメーション作家の宮崎駿はサン=テグジュぺリから影響を受けているそうで、新潮文庫出版の『夜間飛行』『人間の土地』にそれぞれカバーの画を描いている。
[編集] 作品リスト
- 南方郵便機(Courrier Sud、1929年6月)
- 夜間飛行(Vol de Nuit、1931年10月)
- 人間の土地(Terre des Hommes、1939年3月)
- 戦う操縦士(Pilot de Guerre、1942年)
- ある人質への手紙(Lettre à un Otage、1943年2月または6月)
- 星の王子さま(Le Petit Prince、1943年4月)
以降は死後に編集して出版された作品である。
- 城砦(Citadelle、1948年。未完)
- 若き日の手紙1923-1931(Lettres de Jeunesse(1923-1931)、1953年)
- 手帳(Carnets、1953年)
- 母への手紙(Lettres à sa Mère、1955年)
- 人生に意味を(Un Sens à la Vie、1956年)
- 戦時の記録(Écrits de Guerre、1982年)
なお、日本語訳の著作集はみすず書房より刊行されている。
[編集] 脚注
- ^ 士官なので自動的に予備役
- ^ 1940年12月21日リスボン出航。12月31日ニューヨーク着
- ^ 1950年代に存在を目視されていた。1982年、複数機種の残骸混在状態で写真撮影
- ^ 産経新聞、2004年3月26日~4月3日。LE MONDE、2004年4月7日
- ^ 実際に発売されたのは1946年になってからであると出版社は主張している
- ^ 多くの誤植と原画に忠実とは言えない挿絵を含んではいるが
[編集] 関連書
- アラン・ヴィルコンドレ 鳥取絹子 訳 『サン=テグジュペリ 伝説の愛』 岩波書店 ISBN 4-00-023016-6