アン・ブーリン
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アン・ブーリン(Anne Boleyn, 1507年頃 - 1536年5月19日)はイングランド王ヘンリー8世の2番目の王妃(1533年結婚、1536年離婚)、エリザベス1世の生母。父の代で名字の綴りをBullenからBoleynに変更したが、アン自身もNan Bullenと呼ばれることがあった。Nanは当時のアンという名前の愛称。日本語でもアン・ブリンと表記されることもある。
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[編集] 経歴
駐フランス大使トーマス・ブーリンとその妻エリザベス・ハワードとの間の次女として生まれた。実家が商人と言われることもあるが、少なくとも父の代では貴族。また、母方の伯父はノーフォーク公爵。幼少期は父の職業柄、フランス宮廷で教育を受けた。1526年頃に帰国し、ヘンリー8世の最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女となっていたが、ヘンリー8世に見初められ、求婚された。ヘンリー8世とキャサリンとの間には王女メアリー(のちのメアリー1世)しか子がなく、男子の王位継承者を切望していたヘンリー8世はローマ教皇庁にキャサリンとの「離婚許可」を求めた。
カトリック教会は離婚を認めないが、離婚ではなく「結婚そのものが無効であった」(婚姻の無効)という認可を与えることで事実上の離婚を可能にする方法があった(実際に中世の王族や貴族は教皇の認可を得てこの方法を利用している)。ヘンリー8世とキャサリンの場合、キャサリンが元々ヘンリーの兄アーサーの妻だったというのが結婚無効の理由になりえた。通常なら問題なく下りるこの認可だったが、キャサリンの甥に当たる神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)が横槍を入れたため、教皇庁は許可を出すことができなくなった。
ヘンリー8世はこれに激怒して教皇庁との断絶を決意。こうしてイングランド国教会の原型が成立することになった。国王至上法によって、イングランド国内において国王こそ宗教的にも政治的にも最高指導者であることを宣言し、1534年5月、アン・ブーリンを正式な王妃に迎えた。
1534年9月、アンは第二王女エリザベスを出産した。王子誕生を望んでいたヘンリー8世は王女誕生に落胆し、また次の王妃ジェーン・シーモアへと心移りをしたこともあり、次第にアンへの愛情は薄れていった。結婚から2年後、不義密通を行ったとして、アンは反逆罪に問われた。1536年、アンは反逆、姦通、近親姦及び魔術という無実の罪で死刑判決を受け、ロンドン塔にて斬首刑に処せられた。5人の男と姦通したとされたが、うち1人は実の兄弟(すなわち近親相姦)だった。
[編集] 補足
王をたぶらかした魔女から、絶対権力者である国王に結婚を迫られた女性、偉大な女王を生んだ聖女と、様々な立場からの記録がある。毀誉褒貶が激しく、また非難する側も美化する側も意図的に嘘を書く理由があるため、記録が混乱している。6本目の指があったという説も、完全な指から突起程度まで様々。また、生年不詳(Jane Dunnは1501年説、Alison Weirは1500年か1501年説、Joanna Dennyは1507年説)で兄弟順も不詳。メアリー・ブーリン(Mary Boleyn)という姉妹はアンより以前にヘンリー8世の愛人だった。こちらは男女各1人を生んでおり、夫の名字(Carey)を名乗らせたが、ヘンリー8世の子どもであるとされている。アンが「黒髪、色黒、小柄、やせ形」と当時美女とはされない容姿だったのに対し、メアリーの方は「金髪、色白、豊満」と典型的な美女だったようである。
母方の従妹であるキャサリン・ハワードはヘンリー8世の5番目の王妃となったが、アンと同じく処刑された。
[編集] 関連項目
- 『アンナ・ボレーナ』
- ガエターノ・ドニゼッティのオペラ。アン・ブーリンの処刑を題材にした傑作
[編集] 映画
- 『1000日のアン』(1969年アメリカ。監督:チャールズ・シャロット。アンをジュヌヴィエーヴ・ビジョルド、ヘンリー8世をリチャード・バートンが演じた)
[編集] 小説
- Jean Plaidy The lady in the tower
- Jean Plaidy Mruder Most Royal
- Philippa Gregory The other Boleyn girl
- Carolyn Meyer Doomed Queen Anne
[編集] 参考文献
- 小西章子『 華麗なる二人の女王の闘い』
- ダイクストラ好子『王妃の闘い』
- Joanna Denny Anne Boleyn
- Jane Dunn Elizabeth & Mary
- 渡辺みどり『英国王室物語』
- Alison Weir The six wives of Henry VIII
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