ヘンリー8世 (イングランド王)
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ヘンリー8世(Henry VIII, 1491年6月28日 - 1547年1月28日)はテューダー朝のイングランド王(在位:1509年4月22日(戴冠は6月24日) - 1547年1月28日)、アイルランド王(在位(自称):1541年 - 1547年)。イングランド王ヘンリー7世の次男。
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[編集] 生涯
[編集] 才能ある君主として
ロンドン郊外のグリニッジにあったプラセンティア宮殿で、ヘンリー7世とエリザベス王妃の次男として誕生した。兄弟には兄アーサー(プリンス・オブ・ウェールズ)、姉マーガレット(スコットランド王ジェームズ4世に嫁ぐ)、妹メアリー(フランス王ルイ12世に嫁ぐ)がいる。1493年に未だ幼少期にあったヘンリーはドーヴァー城の城主、シニック港長官に任命された。翌年1494年にはヨーク公を授爵し、さらにイングランド紋章院総裁およびアイルランド総督を拝命した。
1501年にカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の末子キャサリンと結婚していたアーサーが急死し、ヘンリーは皇太子となった。
ヘンリーはイングランド王室史上最高のインテリであるとされ、ラテン語、スペイン語、フランス語を理解し、舞踏、馬上槍試合などスポーツにおいても優れた才能を発揮した。音楽にも造詣が深く、ヘンリー8世作曲とされる楽譜(合唱曲“Pastime with Good Company”など)が現存しているなど、文化史にもその名を残している。
父の死によって1509年にヘンリー8世として即位した。その2ヶ月後に未だ喪中であったがキャサリンとの結婚式をあげた。当初は政治には関心を示しておらず、父の時代からの重臣であったウィンチェスター司教リチャード・フォックスを重用していたが、翌年にフォックスと同様にヘンリー7世に仕えた重臣エドマンド・ダドリーを処刑している。1515年頃からヘンリーの全幅の信任を受けたのがヨーク大司教トマス・ウルジーであった。彼はヘンリーの幼少期の監督係も務めていた。ウルジーのロンドンにおける邸宅および田舎のカントリー・ハウスは王に匹敵するほどの規模を誇っていた。これらの建物は後にヘンリー8世によって没収され、それぞれホワイトホール宮殿、ハンプトン・コート宮殿となる。
[編集] 問題の発生
ヘンリー8世はルターの宗教改革を批判する「七秘蹟の擁護」を著した功で、教皇レオ10世から「信仰の擁護者」(Defender of Faith)の称号を授かるほどの熱心なカトリック信者であったが、後にキャサリン王妃との離婚およびアン・ブーリンとの再婚を巡る問題から教皇クレメンス7世と対立。1534年には国王至上法(首長令)を発布し、自らをイギリス国教会の長とするとともに、ローマ・カトリック教会から離脱した。ちなみに「信仰の擁護者」の称号は、国教会の成立後もヘンリー8世とその後継者に代々用いられ、現イギリス女王エリザベス2世の称号の1つにもなっている。
妃やトマス・モアをはじめとする側近を次々と離別・処刑し、カトリック修道院の財産を没収するなど苛烈な人物であったが、イングランド王室の権威確立に寄与した。
[編集] ヘンリー8世の妃たち
- キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon,1485年 - 1536年)
- はじめアーサー皇太子妃。死別後、その弟ヘンリーと再婚。メアリ1世の母。結婚22年目に離婚。
- アン・ブーリン(Anne Boleyn,1507年? - 1536年)
- ジェーン・シーモア(Jane Seymour,1509年? - 1537年)
- エドワード6世の母。アン・ブーリンの侍女。結婚3年目に病死。
- アン・オブ・クレーヴズ(Anne of Cleves,1515年 - 1557年)
- クレーフェ公ヨハン3世の娘。結婚後6ヶ月で離婚。
肖像画があまりにも美化されていたため、初対面時にヘンリーが激怒したというエピソードが残されている。
- クレーフェ公ヨハン3世の娘。結婚後6ヶ月で離婚。
- キャサリン・ハワード(Katherine Howard,1521年? - 1542年)
- アン・ブーリンの従妹。結婚1年半後に反逆罪で刑死。
- キャサリン・パー(Catherine Parr,1512年? - 1548年)
- 学識高く、メアリー、エドワード、エリザベスの教育係も務めた。結婚3年半目に王と死別。
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[編集] 関連項目
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[編集] 外部リンク