イスメト・イノニュ
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ムスタファ・イスメト・イノニュ(Mustafa İsmet İnönü, 1884年9月24日 - 1973年12月25日)は、オスマン帝国末期の軍人、トルコ共和国の第二代大統領(1938年11月11日 - 1950年3月22日)。
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[編集] 生い立ちと初期の軍歴
イスメトは、アナトリア南西部の大都市イズミルで生まれた。父のハジュ・レシト・ベイはマラティヤ出身の官吏で、少年時代は父の転勤に従って各地を転々とする生活を送った。
1903年に陸軍大学校を卒業、オスマン帝国軍の砲兵将校となり、イエメンの反乱、バルカン戦争に従軍した。またこの頃、統一と進歩委員会に加入していたとされる。
第一次世界大戦ではシリア、カフカスの戦線に配属され、ムスタファ・ケマル(アタテュルク)とともに戦った。終戦時の階級は大佐である。
[編集] トルコ共和国建国期
トルコ革命において、イスメトはケマルの忠実な側近としてその片腕になった。1920年、大国民議会が成立したときその議員となり、西部戦線のギリシャ軍との戦いで総司令官に抜擢。1921年1月10日と3月30日の二度に渡るイノニュ川の戦いを勝利に導き、准将に昇進した。
その後、ギリシャ軍の攻勢が強まったため、大国民議会によって全軍指揮権を付与されたケマルに西部戦線の指揮を譲り、その幕下で活躍した。トルコ軍がサカリヤ川でギリシャ軍を破り、連合国との間で休戦協定が結ばれると、イスメトは外相に任命され、アンカラ政府全権代表としてローザンヌ会議に派遣された。イスメトは領土問題において粘り強く交渉し、ローザンヌ条約でほぼ現在のトルコ共和国の領土を回復することに成功した。
1923年10月29日、アンカラの大国民議会がケマルの提出した共和制宣言を可決し、ケマルが大統領に選出されると、イスメトがケマルによって首相に任命された。
[編集] 一党独裁時代
イスメトはムスタファ・ケマル大統領のもとで七次に渡って首相として組閣しケマルの改革を支え、1934年にイノニュ川の戦勝を記念して議会からイノニュの姓を贈られた。
1937年、イスメト・イノニュは外交問題の意見の食い違いから専制的な大統領ケマル・アタテュルクと軋轢を深めたために首相を解任され、ジェラル・バヤルが後任に指名されて失脚寸前に陥った。しかし、アタテュルクは既に晩年で精力を失いつつあり、バヤルはイノニュをアタテュルクの後継に立てることを支持したため、翌年11月10日、アタテュルク大統領が急死すると、その翌日、大国民議会はイスメト・イノニュを後継大統領に指名した。
大統領となったイスメト・イノニュは与党共和人民党の終身党首に承認され権力を確立し、まもなく勃発した第二次世界大戦において終戦直前まで中立を保ってトルコを戦火に巻き込まずに乗り切った。
[編集] 多党制時代
第二次世界大戦後、トルコはソビエト連邦の脅威を防ぐためアメリカの陣営に入る道を選んだ。この外交政策のために、民主主義を強調せざるを得なくなったイノニュ政権は一党独裁政策を転換し、バヤルら一部の共和人民党員が民主党を結党することを認めた。その結果、1950年の総選挙で、民主党は議会の圧倒多数を獲得してバヤルが第三代大統領に選出され、イノニュは大統領を退いて野党党首となった。
1950年代の経済失策から民主党政権が1960年のクーデターで打倒されると、翌1961年の総選挙で共和人民党は比較第一党となり、1965年までの間に三次に渡って連立内閣を組閣したが、過半数を抑えられないまま苦しい政権運営を行った。野党の党首に転じた後は「中道左派」路線を提唱したビュレント・エジェヴィトを書記長に登用し、共和人民党の左旋回を認めた。
1971年に軍部の政治介入が起こるとこれを容認したためエジェヴィトと対立するが、翌1972年、共和人民党の書記長選挙でエジェヴィトがイノニュの推す候補を破って当選したのを受けて党首を辞任、エジェヴィトにこれを譲った。イノニュは終身上院議員となり、翌年死去した。
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