インパール作戦
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インパール作戦(-さくせん)(日本側作戦名:ウ号作戦(うごうさくせん))とは、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のこと。 補給線を軽視した杜撰な作戦により、歴史的敗北を喫し日本陸軍瓦解の発端となった。 無能かつ無責任な司令官による、無茶な作戦の代名詞としてしばしば引用される。
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[編集] 経緯
インド北東部アッサム地方に位置し、ビルマから近いインパールは、インドに駐留するイギリス軍の主要拠点であった。ビルマ-インド間の要衝にあって連合国から中国への主要な補給路(援蒋ルート)であり、ここを攻略すれば中国軍(国民党軍)を著しく弱体化できると考えられた。
大本営陸軍部は、1943年8月、第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将の立案したインパール攻略作戦の準備命令を下達した。しかし、作戦計画は極めて杜撰であった。川幅約600mのチンドウィン川を渡河し、その上で標高2000m級の山々の連なる急峻なアラカン山系のジャングル内を長距離進撃しなければならないにもかかわらず、補給が全く軽視されていることなど、作戦開始前からその実施にあたっての問題点が数多く指摘されていた。こうした問題点を内包していたことで、当初はビルマ方面軍、南方軍、大本営などの上級司令部全てがその実施に難色を示したインパール作戦であったが、1944年1月に大本営によって最終的に認可された背景には、敗北続きの戦局を一気に打開したいという陸軍上層部の思惑が強く働いたと言われている。上層部の思惑を前に、本作戦の危険性を指摘する声は次第にかき消された。(第15軍内部でも作戦に反対した参謀長、小畑信良少将は就任後わずか1ヵ月半で牟田口司令官に罷免されている。) また、インパール作戦の開始前に、支作戦(本作戦の牽制)として第二次アキャブ作戦(ハ号作戦)が1944年2月に花谷正中将を師団長とする第55師団により行なわれた。本作戦は失敗し、同月26日には師団長が作戦中止を命令していたにもかかわらず、インパール作戦に何ら修正が加えられることはなかった。
本作戦には、イギリス支配下のインド独立運動を支援することによってインド内部を混乱させ、イギリスをはじめとする連合軍の後方戦略を撹乱する目的が含まれていたことから、インド国民軍も作戦に投入された。 なお、連合軍は第14軍第4軍団(英印軍3個師団基幹)を中心に約15万人がこの地域に配備されていた。
[編集] 作戦経過
物資の不足から補給・増援がままならないなか、3月8日、第15軍隷下3個師団(第15、31、33師団)を主力とする日本軍は、予定通りインパール攻略作戦を開始した。日本軍は3方向よりインパールを目指したが、作戦が順調であったのはごく初期のみで、ジャングル地帯での作戦は困難を極めた。 牟田口が補給不足打開の切り札として考案した、牛・山羊・羊に荷物を積んで共に行軍させ、必要に応じて糧食に転用しようといういわゆる「ジンギスカン作戦」は、頼みの家畜の半数がチンドウィン川渡河時に流されて水死した上、行く手を阻むジャングルや急峻な地形により兵士が食べる前にさらに脱落し、たちまち破綻した。また3万頭の家畜を引き連れて徒歩で行軍する日本軍は、進撃途上でも空からの格好の標的であり、爆撃に晒された家畜は荷物を持ったまま散り散りに逃げ惑ったため、多くの補給物資が散逸した。さらに、急峻な地形は重砲などの運搬を困難にし、火力不足が深刻化、糧食・弾薬共に欠乏し、各師団とも前線に展開したころには戦闘力を既に消耗していた。本来歩みの遅い牛を引き連れて、迅速さを求められる敵拠点の攻略作戦を敢行するという思考そのものに無理があったといえよう。
物資が欠乏した各師団は相次いで補給を求めたが、牟田口中将の第15軍司令部は「これから送るから進撃せよ」「糧は敵に求めよ」と空電文を返すばかりだった。第31師団「烈」佐藤幸徳師団長隷下第31歩兵団長宮崎繁三郎少将所属中突進隊第138連隊長だった鳥飼恒男大佐が戦後親族に語ったところでは、第15軍司令官牟田口廉也中将は、補給を無視した無謀な突進命令を発したことから、部隊内では、「無茶口(ムチャグチ)」と呼ばれることがあったという。
また、この時期、日本軍に対してイギリス軍が採用した円筒陣地は、円形に構築した陣地の外周を戦車、火砲で防備し、日本軍に包囲されても輸送機から補給物資を空中投下して支え、日本軍が得意とする夜襲、切り込みを完全に撃退した。これに加え、イギリス軍は迫撃砲、機関銃で激しく抵抗したため、あまりの防御の頑強さに、インパール急襲を目的とした軽装備(乙装備)中心の日本軍は歯が立たず、この円筒陣地を「蜂の巣陣地」と呼んだ。皮肉にも日本兵はイギリス軍輸送機の投下した物資(「チャーチル給与」と呼ばれた)を拾って飢えを凌ぐこともあったという。
4月に入って雨季が始まり、補給線が伸びきるなかで空陸からのイギリス軍の強力な反攻が始まると、前線では補給を断たれて飢える兵が続出、死者・餓死者が大量に発生する事態となり、極度の飢えから駄馬や牽牛にまで手をつけるに至り、作戦続行どころではなくなった。機械化が立ち遅れて機動力が脆弱な日本軍は、年間降水量が9000㎜にも達するアラカン山系で雨季の戦闘行動は到底不可能である。しかし、牟田口は4月29日の天長節までにインパールを陥落させることにこだわり、 「1,天長節マデニインパールヲ攻略セントス。 2,宮崎繁三郎少将ノ指揮スル山砲大隊ト歩兵3個大隊ヲインパール正面ニ転進セシム。 3,兵力ノ移動ハ捕獲シタ自動車ニヨルベシ」 と作戦続行を前線部隊に命令した。しかしこのころ、各師団は多数の戦病者を後送できないために本部に抱えており、肥大化する戦病者と欠乏した補給に次第に身動きが取れなくなっていた。
第31師団は英軍の不意を突く事に成功して、インパールの北の要衝コヒマを占領していたが、一粒の米、一発の弾薬も届かない状況を危惧した第31師団長・佐藤幸徳陸軍中将は作戦継続困難と判断して度々撤退を進言する。しかし、牟田口はこれを拒絶し作戦継続を強要した。そこで佐藤は、「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの目にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」と返電して6月1日に兵力を補給集積地とされたウクルルまで退却させ、そこには弾薬・食糧が全くなかったため独断でさらにフミネまで後退した。これは陸軍刑法42条に反し、師団長という陸軍の要職にある者が、上官の命令に従わなかった日本陸軍初の抗命事件である。これが牟田口の逆鱗に触れ師団長を更迭されたが、もとより佐藤は死刑を覚悟しており、軍法会議で第15軍司令部の作戦指導を糾弾するつもりであったという。また、第33師団長・柳田元三陸軍中将が同様の進言をするものの牟田口はまたもや拒絶。これまた逆鱗に触れ、第15師団長・山内正文陸軍中将とともに相次いで更迭される事態となった。天皇によって任命される親補職である師団長(中将)が、現場の一司令官(中将)によって罷免されることは、本来ならばありえないが、後日この人事が問題となることはなかった。これは牟田口が天皇の任免権を独断で侵したことを意味していた。
退却戦に入り、退却路に沿って延々と続く、蛆の湧いた餓死者の白骨死体が横たわるむごたらしい有様を、日本兵は「白骨街道」若しくは「靖国街道」と呼んだ。英軍の機動兵力で後退路はしばしば寸断される中、力尽きた戦友の白骨が後続部隊の道しるべになることすらあった。赤痢などに罹患した餓死者の遺体や動けなくなった敗残兵は、衛生上敗走する日本軍よりもむしろ危険であったため、英軍は進撃途上で生死を問わずガソリンをかけて焼却して回った。この悲惨な退却戦の中で、第31歩兵団長宮崎繁三郎少将は、配下の歩兵第58連隊を率いて殿軍を務め、少ない野砲をせわしなく移動し優勢な火砲があるかのように見せかけるなど、巧みな後退戦術で英軍の進撃を抑え続け、味方に撤退する時間を与えた。また宮崎は脱落した負傷者を見捨てず収容に努め、最悪の戦場の中でも最善を尽くし多くの将兵の命を救った。司令官の牟田口中将はこれら配下の部隊の収容を待たずに、「北方撤退路の視察」と称して司令部を離れ、そのまま単独帰国した。
6月5日、作戦の帰趨を悟った牟田口中将をビルマ方面軍司令官河辺正三中将がインタギーに訪ねて会談。お互いに作戦中止もやむを得ないと考えていたが、それを言い出した方が責任を負わなければならなくなるのではないかと恐れ、お互いに作戦中止を言い出せずに会談は終了した。この時の状況を牟田口中将は「河辺中将の真の腹は作戦継続の能否に関する私の考えを打診するにありと推察した。私はも早インパール作戦は断念すべき時機であると咽喉まで出かかったが、どうしても言葉に出すことができなかった。私はただ私の顔色によって察してもらいたかったのである」と防衛庁防衛研修所戦史室に対して述べている。これに対して河辺中将は「牟田口軍司令官の面上にはなほ言はんと欲して言ひ得ざる何物かの存する印象ありしも予亦露骨に之を窮めんとはせずして別る」と翌日の日記に記している。このため作戦中止が遅れ、被害が余計に拡大する結果となった。
7月3日に作戦中止が正式に決定。投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力は僅か1万2千人に減少していた。傷病者の撤退作業にあたること、この中に残っている戦闘部隊がどれだけいるかを考慮すれば実質的な戦力は皆無で、事実上の壊走といえる。
7月10日、司令官であった牟田口中将は自らが建立させた遥拝所に幹部を集めて泣きながら次のように訓示した。「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる・・・」以下、訓示は一時間以上も続いたため、栄養失調で立っていることができない将校たちは次々と倒れた。
[編集] 苦戦の有様
優位に立つ連合軍は日本軍陣地に対し間断なく空爆と砲撃を繰り返した、兵士達は生き残るために蛸壺塹壕にずっと潜り込んでいるしかなく反撃などは夢の又夢であった。そのような状況下で雨季が到来すると塹壕は水浸しになった、掘るためのスコップなど満足に支給されるはずも無くありあわせの道具もしくは素手で各自が掘った塹壕では排水溝など望むべくもなかったからである。砲撃のため水浸しの塹壕が抜け出ることができず、ずっと水につかっていたために水で皮膚が膨れてベロベロにめくれ上がってしまう兵士が続出した。
第31歩兵団の中突進隊第138連隊長鳥飼恒男大佐は、コヒマ方面からの撤退時には、疲労から、重い小銃を放棄する兵士だけではなく、軍服のボタンまで剥ぎ取って重量軽減を図った兵士もあったと、親族に語っている。
補給が軽視され河舟、車両等機械力による大量補給は殆ど行われなかった、偶さかそのような手段が確保されたとしても「食糧よりも武器弾薬」という方針により餓死寸前の前線に食糧が届けられることは無かった。
[編集] 結果
結果として本作戦は日本軍参加将兵約8万6千人のうち戦死者3万2千人余り、戦病者は4万人以上(一説には餓死者が多数)を出して7月1日に中止された。
しかし、その後終戦に至るまでこの作戦の失敗の責任が明らかにされることはなかった。陸軍は、佐藤中将が作戦当時「心身喪失」であったという診断を下し、佐藤中将の撤退の責を問う軍法会議が開催されることで、軍法会議の場で撤退理由をはじめとするインパール作戦失敗の要因が明らかにされるとともに、その責任追及が第15軍、ビルマ方面軍などの上部組織や軍中枢に及ぶことを回避したのである。結果的に、3万人の損害を出したインパール作戦の失敗の責任の所在を陸軍が検証することは最後まで行われなかった。その一方でイギリス軍はこの作戦を皮肉をこめて「日本軍の指揮官は実に巧妙な作戦をする・・・もっとも敵がいなければの話だが」と評した。自らも病に倒れ後送された山内正文師団長は、死の床で「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」と語った。
牟田口は戦後、インパール作戦失敗の責任を問われると、頑なに自説を曲げずに自己弁護に終始した。インパール作戦で自身に責任がなかった旨を強調する冊子を配布した話やラジオやテレビ、雑誌などで機会さえあれば同様の強調を繰り返していたという。
この作戦失敗により、英印軍に対し互角の形勢にあった日本軍のビルマ=ベンガル湾戦線は崩壊、翌1945年(昭和20年)3月にはアウンサン将軍率いるビルマ国防軍(日本軍が組織、育成した)に寝返られ、結果として日本軍がビルマを失陥する原因となった。
戦後、インパールのあるマニプール州などのインド東北部は政情不安のため、インド政府は外国人の立ち入りを規制、このため現在に至るも遺骨収集などは進んでおらず、やっと日本政府がインド政府の協力の下、インパール近郊のロトパチン村に慰霊碑を建立できたのは1994年(平成6年)のことである。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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