イーゴリ・クルチャトフ
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イーゴリ・クルチャトフ(И́горь Васи́льевич Курча́тов, 1903年1月8日 - 1960年2月7日)は、ソ連の核物理学者、ソ連の原爆開発プロジェクトの責任者。
ロシア帝国グベールニヤ県ゼムスキーザボード(現在のチェリャビンスク州シム市)の生まれ。クリミヤ州立大学で物理学を学び、ペトログラード(現サンクトペテルブルグ)のSPbSPUで造船学を学んだ。1925年にPhysico-Technical Instituteに移り、物理学者のアブラム・ヨッフェに師事し放射能に関する様々な研究に従事した。早いうちに才能が認められ、1932年にはクルチャトフが指揮する核物理学研究グループに独自の研究予算が与えられ、1939年9月21日にはソ連で初めてとなるサイクロトロンを完成させた。
クルチャトフとゲオロギー・フリョロフは、1930年代にウランの連鎖的な核分裂反応と原子炉の設計に関する基本的なアイデアを考え出した。1942年にはクルチャトフは「数キログラムのウランの核を破壊することで、20,000トンのトリニトロトルエン(TNT)を爆破するのに匹敵するエネルギーが得られる」と予言したが、この予想は、広島への原子爆弾投下によって実際に証明された。
1941年にドイツとの戦争が始まると、クルチャトフは磁気機雷より船舶を防護する研究、つづいて戦車の装備について研究するようになった。1943年にNKVD(内務人民委員部)は原子爆弾の実現可能性に関するイギリスの極秘文書を入手する。これによりスターリンはソ連の原子力プログラムを開始するように命じた。アブラム・ヨッフェがモロトフにクルチャトフを推薦し、その結果当時40歳とまだ若かったクルチャトフがこのプロジェクトを指揮することとなった。スターリンが原子爆弾開発を命じたもうひとつの理由は、ゲオロギー・フリョロフからの手紙にあった。フリョロフはその少し前から、核分裂反応や原子力エネルギーに関する論文が西側の学術雑誌から消えていることに気づいていた。各国の原子爆弾開発が始まったことを察知したフリョロフはスターリンに手紙を書いて忠告したのだった。
ソビエトの原子爆弾開発プログラムは当初は遅々として進まなかったが、 スパイのKlaus Fuchsからもたらされた西側での開発状況や、その後実際に広島と長崎に原子爆弾が投下されたことにより、スターリンは1948年までに原子爆弾を完成させるようにと命じ、プロジェクトを悪名高いベリヤの指揮下におくことにより科学者に強いプレッシャーを与えた。一方で科学者は様々な生活上の優遇措置を与えられた。1946年11月、クルチャトフは研究所のすぐ隣に建てられた自宅に妻とともに移り住み、1960年になくなるまでここで暮らした。
ソ連の原子爆弾開発プロジェクトはヴォルガ川沿いにあるゴーリキー州(現ニジニ・ノヴゴロド州)のサーロフで行われたが、秘密保持のために町名はアルザマス-16と変えられた。原子爆弾開発チームは、すでにアメリカで公開されていた情報やスパイのKlaus Fuchsがもたらした情報を参考にしたが、フルシチョフとベリヤは、ソ連の諜報機関がニセの情報をつかまされていることを恐れて、入手した情報はすべてソ連のチームで追試するようにと念を押した。これに加えて、ベリヤ率いる秘密警察が科学者の行動をチェックした。
原子爆弾開発プロジェクトが始まると、クルチャトフは、プロジェクトが成功するまではヒゲを剃らないことを宣言し、そのためにそれ以降のクルチャトフは長いひげがトレードマークとなった。
1949年8月29日、カザフ共和国(当時)のセミパラチンスク核実験場においてにソ連最初の核実験(プルトニウム型原子爆弾)が成功した。このときクルチャトフは、実験が失敗した場合にはスターリンの命により銃殺されることをも覚悟していたという。
クルチャトフは続いてソ連の水爆開発プロジェクトにも携わるが(1953年)、その後はおもに原子力技術の平和利用に関する研究に専念するようになり、核実験にも反対の立場を取るようになった。
1960年に脳血栓のためにモスクワで死去。遺体はモスクワの赤の広場のレーニン廟脇に埋められている。
クルチャトフが率いた原子爆弾開発のための研究所(「ソ連科学アカデミー第2研究グループ」がその正式名であった)は、1955年にクルチャトフ核物理学研究所と名前を変えられ、核融合やプラズマ物理の研究機関となった。ソ連崩壊後はクルチャトフ研究所となった。