エトムント・フッサール
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エトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl, 1859年4月8日 - 1938年4月27日)は、オーストリアの数学者・哲学者である。
初めは数学基礎論の研究者であったが、哲学の側からの諸学問の基礎付けへと関心を移し、全く新しい対象へのアプローチの方法として「現象学」を提唱するに至る。
現象学運動は20世紀哲学の新たな流れとなり、マルティン・ハイデッガー、ジャン=ポール・サルトル、モーリス・メルロー=ポンティらの後継者を生み出し、学問のみならず政治や芸術にまで影響を与えた。
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[編集] 経歴
- 1859年
- オーストリア帝国(現チェコ共和国)のプロスニッツにユダヤ系織物商の子として生まれる。
- 1876年
- オルミュッツのギムナジウム(高等中学校)を卒業。
- ライプツィヒ大学で三学期間数学・物理学・天文学・哲学を学ぶ。
- 1878年
- 春からベルリン大学のワイエルシュトラス、クロネッカーのもとで数学の研究を続ける。
- 1881年
- ウィーン大学へ移る。
- 1883年
- 「変分法」に関する数学論文で学位を取得。
- ベルリンへ戻り、ワイエルシュトラスの助手となる。
- 一年間の兵役を務める。
- 1884年
- 冬から二年間(四学期間)ブレンターノに師事し、強い影響を受けて専攻を哲学に変える。
[編集] ハレ大学時代(1886年 - 1901年)
- 1886年
- ブレンターノの推薦で心理学者のシュトゥンプがいるハレ大学へ行く。
- 1887年
- 教授資格論文「数の概念について――心理学的分析」により教授資格を取得。この論文が、のちに出版される『算術の哲学』のもとになる。
- 1891年
- 『算術の哲学――論理学的かつ心理学的研究』第1巻。
- フレーゲ、ナトルプから心理学主義を批判される(フッサール自身もこの批判を受け入れ、心理学主義的な考えを捨てたため第二巻の出版は断念され未完)。
- 1900年
- 『論理学研究』第1巻「純粋論理学序説」。
- 『算術の哲学』から一転して心理学主義に徹底した批判を加える(1913年の第2版でも大きな改訂はない)。
- 1901年
- 『論理学研究』第2巻「現象学と認識論のための諸研究」。
- ナトルプやディルタイから好評を博し、当時ミュンヘン大学にいた若手心理学者たちがこれを読んでフッサールのもとへ走り、「ミュンヘン現象学派」を形成する。
- 6つの研究からなるこの第2巻は2部に分けられており、第1部(第1~第5研究)は1913年に、第2部(第6研究)は1921年にそれぞれ第2版が出るが、この増補改訂の中でフッサール自身の現象学についての考え方が大きく変化しているため(1913年は『イデーン』I出版の年でもある)、フッサールを理解するための難点の一つとなっている。
[編集] ゲッティンゲン大学時代(1901年 - 1915年)
- 1901年
- 助教授としてゲッティンゲン大学へ招かれる。後を追ってきたミュンヘン現象学派の面々も加え、新たに「ゲッティンゲン現象学派」が形成される。
- 1904年
- 冬学期に『内的時間意識の現象学』講義(1928年参照)。
- 1905年
- 夏、弟子たちを連れてアルプス山中インスブルック近郊のゼーフェルトへ行き、研究会を開く。ここで書かれた原稿は「ゼーフェルト草稿」と呼ばれ、『フッサリアーナ』(フッサールの全集)第10巻に収録されている。
- 1906年
- 正教授に昇進。
- 1907年
- 夏学期に『現象学の理念』講義(死後『フッサリアーナ』第2巻として刊行される)。ここで「現象学的還元」の思想が明確に打ち出される。
- 1911年
- 哲学雑誌『ロゴス』の創刊号に『厳密な学問としての哲学』を発表。
- 1913年
- 現象学派の研究機関誌『哲学および現象学的研究年報』(以下『年報』)を創刊。1930年までに全11巻が刊行される。
- この創刊号に『純粋現象学および現象学的哲学のための
諸考案 』Iを発表。現象学の確立を世に知らしめる。
[編集] フライブルク大学時代(1916年 - 1928年)
- 1916年
- リッケルトの後任としてフライブルク大学哲学科の正教授となる。
- 『イデーン』II、IIIのための草稿や、『第一哲学』『現象学的心理学』『受動的綜合』などを執筆するが、いずれも刊行されるのは死後のこととなる(『イデーン』II、III草稿はIの公刊時にはすでに執筆を終えていながらその後も推敲を重ね続けていたともいわれる。現在は『フッサリアーナ』第4、5巻に収録)。
- 1919年
- ハイデッガーが助手となる。
- 1927年
- ハイデッガーの『存在と時間』を読み、自分の後継者とも目していたハイデッガーの考え方に自分との相違を感じ始める。
- 大英百科事典の依頼を受けて新項目「現象学」を執筆することになり、協力者として(また、共同作業を通じて見解の相違を埋めるため)ハイデッガーを指名するが、結果として完全に相容れないものが明らかになり、一人で仕上げることとなる(この新項目のための原稿は「ブリタニカ草稿」と呼ばれている)。
- 1928年
- 1905年冬学期の講義『内的時間意識の現象学』がハイデッガーによって手稿から編集され、『年報』第9巻に発表される(フッサールとハイデッガーはすでに決裂していたが、関係修復の望みがまだフッサールの側に残っていた前年に依頼したものである)。
- この年をもってフライブルク大学を定年で退官。後任には、決裂してもなおフッサールの強く推薦したハイデッガーが就任する。
[編集] 退官後、ナチスの台頭
- 1929年
- 弟子たちの手で70歳記念論文集として『年報』別巻が出版される。自身も『年報』第10巻に『形式論理学と超越論的論理学』を発表。これに関連した手稿が死後(1938年)に『経験と判断』として編集、出版される。
- ソルボンヌ大学へ招かれてデカルト講堂で「超越論的現象学入門」と題した講演を行う。
- 1930年
- 『年報』第11巻(終刊号)に「『イデーン』へのあとがき」を発表。
- 1931年
- ソルボンヌ講演を敷衍し、後期の代表作となる『デカルト的省察』として出版。
- 1933年
- ヒトラー政権成立。このころにはすでに国際的な名声も高まり、欧米各国ではアカデミー名誉会員に推されたりもしていたが、ドイツ国内ではユダヤ人であったため活動を極度に制限される(教授資格剥奪、大学構内への立入禁止、国内での全著作発禁、海外の国際哲学会議への参加不許可など)。このためフッサールはほとんど毎日を書斎の中で過ごし、1日10時間を執筆に充てていた。しかもフッサールは速記を学んでいたので、1938年に亡くなるまでに残された未発表草稿は45000ページにも及んだ。
- 1935年
- 5月、ウィーン講演「ヨーロッパ人類の危機における哲学」。
- 11月、プラハ講演「ヨーロッパ諸学の危機と心理学」。
- 1937年
- 1935年の2講演をもとに『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』第1・2部を完成させ、政府の目を潜り抜けるためベオグラードの雑誌『フィロソフィア』に発表(第3部は死後刊行)。
- 1938年
- 4月27日、歿。
- 45000ページに及ぶ草稿はベルギーの神父ファン・ブレダの手によってナチスの検問を逃れ、「フッサール文庫」としてルーヴァンに保管されている。
[編集] 著作
- 『論理学研究』Logische Untersuchungen
- 『現象学の理念』Die Idee der Phaenomenologie
- 『純粋現象学、及び現象学的哲学のための考案(イデーン)』Ideen zu einer reinen Phanomenologie und phanomenologischen Philosophie
- 『デカルト的省察』Cartesianische Meditationen
- 『間主観性の現象学』Zur Phaenomenologie des Intersubjektivitaet
- 『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』Die Krises der europaischen Wissenschaften und die transzendentale Phanomenologie
[編集] 外部リンク
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