オーランド・セペダ
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オーランド・セペダ(Orlando Cepeda, 1937年9月17日 - )は元メジャーリーグの一塁手であり右利きのバッターである。ラテンアメリカのベーブ・ルースと呼ばれ、現役時代は「ブル」、「ベビーブル」のニックネームで呼ばれた。また創価学会(SGI)のメンバーでもある。
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[編集] メジャーリーガー時代
オーランド・セペダはプエルトリコで1937年に生まれた。父であるペドロ・セペダ(Pedro Cepeda)はプエルトリコやカリブ海の国々では伝説的なスラッガーであった。 1955年、メジャーリーグのスカウトを受けて17歳で米本土に渡り、サンフランシスコ・ジャイアンツと契約。 1958年、サンフランシスコ・ジャイアンツでデビューし、新人王を獲得。ジャイアンツ時代の1958~1965年の間に1095試合に出場し、657得点を挙げてウィリー・メイズやウィリー・マッコビーらと共に60年代のジャイアンツを引っ張った。
1960年には日米野球で来日して日本のプロ野球とも親善試合を行った。 1966年のシーズン途中にセントルイス・カージナルスに移籍し、その後は複数球団を転々とするが、その間の1967年にはナショナル・リーグMVPを、1973年には最優秀指名打者賞を受賞している。1974年に現役を引退した。
通算オールスター出場9回。ワールドシリーズ出場3回を果たしている。
[編集] 引退後
引退後のセペダの生涯は波乱に満ちたものだった。選手時代の後半からケガの治療でマリファナを常用し始め、引退後の1975年、マリファナの密輸に関与したとして逮捕された。そして、懲役5年の有罪判決を受け1978年にフロリダ州のエグリン刑務所に収監された(ただし、この裁判の杜撰さが弁護士によって指摘され、結局10ヵ月で仮出所する。)。
親子二代にわたってプエルトリコの野球の英雄だっただけに、故郷での反発は激しく、この間のセペダにとっては正に針のムシロ的状況で、メジャーリーグでも彼を出入り禁止処分とする球団も存在した。(この頃SGIに入会している。)
だが、かつての古巣・ジャイアンツが広報担当としてセペダに手をさしのべ、セペダもそれに応えて再起し、青少年への薬物乱用防止キャンペーンや刑務所の慰問、エイズ患者のスポーツ参加などに積極的に貢献した。
やがてその功が報われ、1993年にはプエルトリコの野球殿堂入りを果たし、そして1999年、ヴェテランズ委員会の特別表彰により、「青少年の模範」としてアメリカ野球殿堂入りを果たし、同年、古巣ジャイアンツにおいてもセペダの在籍時の背番号『30』が永久欠番に指定され、その功績を称えられた。2001年には21世紀最初のオールスターゲームの始球式を務める。
他にも2000年にはニューヨーク州から「勝利の人生」賞を受賞している。
2006年には日本で『オーランド・セペダ自伝』が発刊された。
[編集] 年譜
- 1958年 新人王
- 1961年・1967年 打点王
- 1967年 ナショナルリーグMVP
- 通算本塁打数 379本
- オールスター戦出場 9回
- 1993年 プエルトリコ野球殿堂入り
- 1999年 アメリカ野球殿堂入り
[編集] 在籍球団
- サンフランシスコ・ジャイアンツ - 1958年-1966年
- セントルイス・カージナルス - 1966年-1967年
- アトランタ・ブレーブス - 1969年-1972年
- オークランド・アスレチックス - 1972年
- ボストン・レッドソックス - Boston Red Sox 1973年
- カンザスシティ・ロイヤルズ - Kansas City Royals 1974年