カレラ・パナメリカーナ・メヒコ
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カレラ・パナメリカーナ・メヒコ(Carrera Panamericana Mexico)は、1950年から1954年にかけてメキシコ合衆国で行われた自動車レース。
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[編集] 概要
当時イタリアで行われていたミッレミリアやタルガ・フローリオなどの公道レースを手本に、アメリカ大陸縦断道路「パンアメリカンハイウェイ」のメキシコ国内部分の完成を記念した公道レースとして、当時石油の輸出などで裕福であったメキシコ政府の大々的な支援の下、1950年より開催された。
[編集] バラエティに富む参加車
土地柄、キャディラックやリンカーン、パッカードなどのアメリカのメーカーやレーシングドライバーが多数出場していたのが特徴だが、もちろんメルセデスベンツやポルシェ、フェラーリなどのヨーロッパの主要メーカーも多数参加し、メキシコの荒れ果てた大地をアメリカの大排気量セダンとヨーロッパのスポーツカー、レーシングカーが走り回るという、他の公道レースにはないダイナミックな魅力が売りであった。
ヨーロッパのメーカーは、ワークスやセミワークス車にスターリング・モス(メルセデスベンツ)やフィル・ヒル(フェラーリ)、ハンス・ヘルマン(ポルシェ)などのトップドライバーを乗せるなど非常に力を入れており、特にフェラーリやポルシェは、毎年カレラ・パナメリカーナ・メヒコのために特別に開発したマシンを持ち込むなどの力の入れようであった。
なお、ポルシェの主要モデルとして知られるポルシェ911"カレラ"のネーミングは、カレラ・パナメリカーナ・メヒコ向け特別モデルから取られたものである。また、アメリカのバックヤード・ビルダーが部品をかき集め、独自に組み立てた「カバッロ・デ・ヒエロ」(鉄の馬)などのワンオフ車が多数出場しているのも特徴の一つであった。
[編集] 独裁政権の広告塔
また、このレースは当時その殆どが軍事独裁政権であった中南米諸国の国威発揚の場としても利用され、アルゼンチンのファン・ペロンは、1953年のレースに前年に亡くなったファーストレディのエヴァ・ペロンの顔をボンネットに描いたポルシェを参戦させ、ドミニカ共和国の独裁者ラファエル・トルヒーヨは、自らのポケットマネーを投じて購入したスペインの名車ペガソを走らせるなど、レース参加車を自らの広告塔として利用した。
[編集] 中止
しかし、この様に年々激しさと華やかさが増していったものの、毎年ドライバーの死亡事故がおきるなど危険なレースとも知られ、ついに1954年を最後としてメキシコ政府はレースの開催を中止した。
[編集] 主な参加車
- リンカーン・カプリ(1951年)
- メルセデスベンツ300SL"カレラ・パナメリカーナ・メヒコ"(1952年)
- フェラーリ330"メキシコ" (1952年)
- ポルシェ550"カレラ"(1953年)
- フェラーリ250"モンツァ・カレラ・パナメリカーナ"(1954年)
- ぺガソZ-102(1954年)