クレメンス8世 (ローマ教皇)
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クレメンス8世(Clemens VIII ,1536年2月24日 - 1605年3月3日)はローマ教皇(在位,1592年-1605年)。フィレンツェ出身で、本名はイッポリト・アルドブランディーニ(Ippolito Aldobrandini)。この時代の教皇としては珍しく聖職者としても政治家としても非のうちどころがない人物であったが、唯一ジョルダーノ・ブルーノの処刑を許したことが後世の評価に汚点を残すことになった。
[編集] 生涯
クレメンス8世が教皇に選ばれたのは1592年1月のことである。彼の在位中の出来事でもっとも重要なものは長い交渉のすえにフランスのアンリ4世との和解が成立し、その破門を解除したことである。これはドサー枢機卿の手腕によるところが大きい。また、フランスとスペインの間を取り持って1598年のヴェルヴァン条約でこれを和解させた。クレメンス8世は統治者エステ家の継承者不在からフェラーラを教皇領に加えたが、これが教皇領への最後の大きな併合となった。1600年2月17日に聖年を祝っていたローマでジョルダーノ・ブルーノが異端審問を受けて火刑に処されたことは教皇の輝かしい経歴に大きな汚点を残すことになった。また、ベアトリーチェ・チェンチを処刑した際には市民の暴動が起き多数の死傷者が出た。
教皇自身は統治者として有能で、政治家としても賢明であった。彼はスペインにべったりだった教皇庁のあり方を修正すべく努力し、それを成し遂げた。また、この時代に盛んになっていた自由意志論争において、イエズス会とドミニコ会が激しく争ったが、教皇は賢明にも、結論を出すことでどちらかに軍配をあげる結果になることを避けた。教皇は1605年に死去したが、有徳の聖職者で有能な政治家という高い評価を受けていた。彼の時代に鋳造された多くの美しいメダルは今でも残っている。
学問を好んだ教皇は1592年にイエズス会員ロベルト・ベラルミーノらによって構成された委員会によって進められていたヴルガータ訳の聖書の改訂版を発行させている。これが『シクストゥス・クレメンティーノ版』と呼ばれるヴルガータ聖書であり、20世紀に入るまでカトリック教会の公式ラテン語聖書となった。教皇は同時に宣教事業にも力を注ぎ、フランシスコ・サレジオの宣教活動を支援している。
この時代、トルコからヨーロッパにコーヒーが入ってきた。教皇自身もコーヒーが好きでよく飲んでいたため、次のような真偽不明の話が生まれた。あるとき教皇の側近が「コーヒーはムスリムの飲み物で悪魔のものだから禁止しては?」と進言した。教皇は答えた、「それにしても悪魔はいいものを飲んでいる。いっそのことコーヒーに洗礼を授けてこちらのものにしてしまってはどうだろうか……。」
在位中、サン・ピエトロ大聖堂のドーム頂上に十字架が据えつけられ、1594年に新しい祭壇で初めてミサを行った(まだ建設工事は続き、献堂式は後の1624年になる)。
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[編集] 関連項目
- チェンチ家
- ベアトリーチェ・チェンチ