ゲンリフ・リュシコフ
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ゲンリフ・サモイロヴィッチ・リュシコフ(Genrikh Samoilovich Lyushkov, Генрих Самойлович Люшков)(1900年-1945年8月19日)はソ連秘密警察の幹部で、最高位(三等国家保安委員、中将相当)の亡命者であった。
[編集] 概要
オデッサで仕立て屋の息子として生まれた。1917年、ロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ党)に入党し、オデッサの赤衛隊に入隊した。1918年~1919年、地下活動に従事し逮捕されたが、逃亡。1920年2月、赤軍に入隊し、政治職員、旅団政治課長を務める。
1920年6月、チェーカーの仕事に移り、ティラスポリで勤務。同年11月初めにオデッサのチェーカーと国家政治局(GPU)に参加した。1920年、カーメニェツ・ポリスク、1922年初め、GPUプロスクロフ管区長。1930年5月、秘密課長、1931年4月、ウクライナGPU秘密政治課長。同年8月、統合国家政治局(OGPU)(後に内務人民委員部(NKVD))の中央機構に移り、秘密政治課を含むソ連の様々な部門で活動し、1930年代に航空機メーカーユンカースに関わる産業スパイを行い、スターリンのお気に入りとなった。1936年8月、NKVDアゾフ・黒海地方局長。最後の役職は1937年7月31日に就任したNKVD極東局長であった。この時までにレーニン勲章を受章し、最高会議議員とソ連共産党中央委員になっていた。なお、亡命までの10ヶ月間で25万人を弾圧し、その内7千人を銃殺、20万人の朝鮮人を中央アジアに追放している。
この時期に大粛清は頂点に達しようとし、ニコライ・エジョフは徐々に権力を失っていった。ルシコフはモスクワに召喚されたが、戻れば逮捕されるものと強く疑われた。前任のデリバスとバリツキイの2人は、共に粛清されていた。1938年6月13日、日本が考えていたより強力な管区の軍事力を示す重要な機密書類を携えて日本が占領する満州に逃走した。「三等国家保安委員」(комиссар госбезопасности 3-го ранга)として粛清に関して最も良く知る最重要亡命者であった。
亡命に先立ち娘が治療を受ける目的で妻インナと11歳の娘の出国を画策していた。妻から事前に打ち合わせておいた暗号電報を受け取ると、数日後家族は安全だと信じて亡命したが、実際は跡形もなく消え去っていた。後に知らされたところでは、妻はルビャンカ刑務所で拷問され射殺され、両親と家族全員がシベリアに送られたという。母と兄弟は死亡したが、姉妹はシベリアの収容所で生き残った。娘のその後は分かっていない。
亡命から一ヵ月後、東京のホテルで記者会見を行った。ソ連の粛清に関する記事とインタビューを数多く行い、日本に諜報活動の助言を行った。1939年1月にソチのスターリンに対する詳細な暗殺計画を持ち掛け計画し、日本はこの自殺行為の任務を遂行するロシア移民6人をソ連とトルコの国境から送り込もうとした。しかし、暗殺団にソ連のスパイが潜入していて、国境を越える試みは、失敗した。リュシコフは軍事顧問としても活動し、ソ連を攻撃するのに戦車が少なくとも4000台必要だと見積もり、日本にソ連の軍事力を過小評価しないよう警告した。この台数は日本には不可能な台数であった。
第二次世界大戦終結間近の1945年8月に失踪するまで満州国で日本のために働いた。失踪後のことは良く分かっていないが、一部に諜報関係のトップでタケオカという防諜部門の将校の手で大連で殺されたといわれている。ソ連軍が大連を占領することが予想され、日本はリュシコフの扱いを議論した。タケオカは絶望的な状況という観点から自殺を促したが、リュシコフが拒否すると、タケオカはソ連に渡すまいとして射殺し、密かに火葬するよう命じた。
[編集] 関連項目
- 檜山良昭
- リュシコフの亡命事件を題材とした小説「スターリン暗殺計画」を発表した。なお同小説ではリュシコフが自らスターリン暗殺のための潜入班に加わり殺されたことになっているが、上記の通り実際にはアドバイスを与えたのみで潜入はしていない。
- 満州国
- 関東軍