コンスタンス・ド・ブルターニュ
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コンスタンス・ド・ブルターニュ(Constance de Bretagne, 1161年 - 1201年9月5日)は、ブルターニュ女公。アーサー・オブ・ブリタニーの母。ブルターニュ公コナン4世とマーガレット・オブ・スコットランド(スコットランド王デイヴィッド1世の孫娘)の唯一の子。
1181年、イングランド王ヘンリー2世と王妃アリエノール・ダキテーヌの四男ジェフリーと結婚した。広大な公国の相続人たるコンスタンスと結婚することで、ジェフリーに領地と地位を与えるための政略結婚であった。後ろ盾を持たないコンスタンスにとっては、選択の余地のないことだった。2人の間には、「フェア・メイド・オブ・ブリタニー」と呼ばれた長女エレオノールとアーサーが生まれた。王太子である兄・若ヘンリー、母のお気に入りアキテーヌ公リチャード(のちのリチャード1世)の厚遇に歯がみしながら、ジェフリーは1186年に落馬事故で急死した。夫の不遇を知るコンスタンスは、生涯イングランドと夫の親族たちを嫌った。彼女はアーサーをプランタジネット家にゆだねず、フランス王フィリップ2世の庇護に頼った。コンスタンスはアーサーが成人する1196年までブルターニュ女公となり、その後をブルターニュ侯の息子へ引き継いだ。
1188年にコンスタンスは、舅ヘンリーに4代目チェスター伯ラナルフと再婚するよう命じられたが、結婚は不幸な結果となった。1196年、故国ブルターニュで暴動が起き、コンスタンスはラナルフに監禁された。2年して彼女はようやく解放され、ラナルフとの結婚の無効がかなった。
コンスタンスはドルー伯ギーを夫に選んだ。ギーはドルー家初代のブルターニュ公となった。ギーとの間にはアリックスとカトリーヌの2女が生まれ、アリックスはピエール・ド・ドルーと結婚し、ブルターニュ公国の支配者となった。
アーサーは反乱の失敗後、ジョン王に捕らえられたまま消息を断ち、誰も生きている彼を見ることはなかった。長女エレオノールも弟とともに捕らえられ、獄死した。
コンスタンスは、人生の最後の数年を平和に過ごし、自分の死後に起こる子供たちの悲運を知らぬまま、1201年に亡くなった。遺体はヴィルヌーヴの教会に葬られた。
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