コンドルセ
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コンドルセことマリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタ(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat、1743年9月17日 - 1794年3月29日)は、フランスの数学者、哲学者、政治家。社会学の創設者の一人として目されている。エーヌ県Ribemont生、パリBourg-la-Reine 没。
ドーフィネ(Dauphiné)のCondorcet伯であることから、Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat CONDORCETと呼ばれ、日本では「コンドルセ」と略称されている。
投票の逆理(コンドルセのパラドクス)について考察したことで知られる。
[編集] 来歴
1758年パリーのコレージュドナヴァールに入学、数学の才能を認められ、パリーのCOLLEGE MAZARINで数学を専攻し、1765年「積分論」を刊行、1769年パリ王立科学アカデミーの会員に推挙された。啓蒙思想家の大家と親交を深め、百科全書に独占的買占などの経済学の論稿を掲載した。1770年代には解析を中心とする数学の理論研究の傍ら、1774年から1776年にかけて財務総監ジャック・テュルゴーの片腕として政治改革に関わる。テュルゴーの改革は挫折に終わったが、政治と科学双方を射程に入れたコンドルセの思想はその後深化を遂げ、1780年代に「道徳政治科学の数学化」という学問プロジェクトに着手することとなる。道徳政治科学とは、当時まだ明確な学問的輪郭を与えられていなかった経済学の源流の一つであり、啓蒙思想の知識人達に共有されていた問題関心であったが数学者達の関心をも集めていた。そこでコンドルセは、当時数学者ピエール=シモン・ラプラスらによって理論的な整備の進みつつあった確率論を社会現象に適用し、合理的な意思決定の指針を与えるような社会科学を目指したのである。1785年に出版された「多数決の確率に対する解析の応用試論」はその一環であった。フランス革命の混乱による中断等でこの試みは未完成に終わるのだが19世紀以降発達する社会統計学に影響を与えることとなるであろう。
このような思想的、学問的経緯を経てコンドルセは社会的な資本主義の批判にまで到達する。人類愛と資本寡占への批判をも含む人道的汎人文主義者となる。1788年から政治的実践に移行し、同年「黒人友の会」出稿。1789年のフランス革命ではパリ・コミューン役員となり、1790年にはアヴェ・シェイエスらと1789年協会を設立、ヴァレンヌ事件以降、共和主義者の論客となり、1781年9月立法議会にパリーから選出され、公共教育委員会議長となる。1792年9月国民公会議員となり、議長を経て、憲法委員会に入り1793年2月ジロンド憲法草案を議会に上程。同年のパリコミューンの事件でジロンド派は没落。6月14日山岳派憲法が可決。恐怖政治に反対したため7月8日逮捕令状が発せられ、ヴェルネー夫人宅の9月間の隠遁生活中のとき「人間精神進歩の歴史」を執筆。該著作は、オーギュスト・コント社会学の基礎となる小論で、人間の精神は、天文学と、占星学、純粋数学、神学といった人間の精神と社会活動から離れている学的領域から、やがて、文学、経済学、論理学、社会科学といった人間の行動と生活を論理的に究明する人文科学へ発展してきており、進化の過程において、心理学と社会科学がようやく生まれてきたその精神史と社会科学の重要性を論じ、オーギュスト・コントの理論の礎を「人類の精神の進歩」の最も大切な学的領域として捉えている。
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