サンプラザ中野のオールナイトニッポン
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サンプラザ中野のオールナイトニッポン( - なかの - )は、ニッポン放送の人気深夜番組、オールナイトニッポンの金曜1部(毎週金曜日深夜25:00~27:00)で放送されていたラジオ番組。
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[編集] 概要
- 放送期間は1985年4月26日から1987年10月9日まで。
- 番組にはサンプラザ中野の他、同じ爆風スランプのメンバー、パッパラー河合もほぼレギュラー出演していた。
- スタジオの中だけで番組を進めるだけに飽き足らず、外に飛び出して様々なイベントを行うことも多かった番組だった。「幻の商売繁盛 えーらいこっちゃ」「チャリ・伊豆・グランプリ」が代表的なイベントであり、「~えーらいこっちゃ」は日本民間放送連盟が選ぶ「ラジオ成功事例集・人を集めるラジオ部門」の奨励賞を受賞している。
- 1985年9月には、爆風スランプが「こぼうず隊」と名義を変えて歌った「ちゃんちゃらおかP音頭」の歌詞をリスナーから募集している。ちなみに「おかP」という言葉は現代用語の基礎知識にも載った事があるとか。
- 毎回、番組の最後は「プロミス、プロミス、プロミス、ユー」という言葉で締めるのが通例だった。
[編集] 主なコーナー、企画
[編集] カリカリ笑って
とにかくおかしなネタ、写真、記事、出来事などを書いたり貼ったりして送って、みんなで笑ってしまおうというコーナー。このコーナーのネタから派生して行ったコーナーもあった。最後は中野の「カリカリ笑ってー!」(「カリカリ笑って…ってってってって」などというパターンもあり)という声で締めていた。この旧コーナー名は「ズイズイ笑って」。
[編集] 早稲ダービー
「中野さんの後輩になりたい!」と言う、早稲田大学を受験するリスナーの合格発表までの日々を追っていたコーナー。“出走”するリスナーを募集、出走できたら「早稲田大明神」ステッカーがもらえた。本番組では2回行われ、合格発表の時は、やはりそれぞれドラマがあった。なおこの後“第3回”は1989年に「NORU SORU」で行われた。
[編集] F1レーシングへの道・チャリダー
「自転車で鈴鹿サーキットを走りたい」ということから始まったといわれるコーナー。様々な変わったレース案を募集していた。このコーナーの目的は後述の「チャリ・伊豆・グランプリ」で達成される。
[編集] インディーズフェスティバルへの道
コンサートツアーで訪れた群馬県前橋市で、タクシーの運転手から手渡された双葉勝之の「まえばし雨情」という曲のカセットテープをきっかけに「『演歌版インディーズフェスティバル』を実現しよう」として動き出したコーナー。
主なノミネート曲
- 富士原 旭「夫婦傘」(奈良県のリスナー推薦)
- 近藤夢児&南條幸司とその子どもたち「エイズなんか怖くない」(近藤氏は医学博士 との事。)
- 中垣幸雄「シベリア颪」
- 小林文子「疎遠坂」
- 奄美大輔「怒涛船」(歌い出しがいきなり「まぐろが来たぞー」の絶叫。「デーモン小暮のオールナイトニッポン」の職人気質物語コーナーでも流されたことがあった)
- いなだちづこ「あなたの故郷」
- 里美映「あなたをかんでみたい」
- 伊藤 幸「夜のちがさき」
- 幸 貞人「古キズ」
- 佐々木みのる「北星寝台」
[編集] なんでも輪島(すっすっ輪島)
当時ちょうど大相撲から全日本プロレスに転向した輪島大士の近況(ネタ)を報告してもらうコーナー。
[編集] 業界縦断ウルトラリクルートしよう
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[編集] スクールトゥモロー
学校をはじめ、家庭、社会などでの悩み事、相談事などをみんなで一緒に考えていくコーナー。このコーナーでは中野は話のトーンを落とし、言葉を選ぶように淡々と自分の考えなどを話していった。
[編集] 行われたイベント
[編集] 幻の商売繁盛 えーらいこっちゃ
この番組を象徴するであろうコーナー。寂れた店などにリスナーとともに押しかけ、中野と河合のユニット「ザ・花びら」のライヴを見ながら、ほんのわずかだけでも商売繁盛させようというゲリラ的企画。
- 第1回:1985年6月9日 いつもは一日30人という横浜市内のラーメン屋に、約300人を集める。用意されたラーメン150人分はすぐに売り切れ、あとは飲み物で我慢… ということになった。ライヴは15:00から約3時間行われたが、前日の21:00から待っていた人もいたという。
- 第2回:1985年7月21日 神奈川県横須賀市内の銭湯に、約150人が水着姿で集まる。中野のわき毛をそるパフォーマンスもあった。
- 第3回:1985年10月20日 埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)の大衆食堂で、400円のカレーを食べながらザ・花びらのライヴを見ようということだったが、定員25人の食堂に集まったのは約500人。そのため、ザ・花びらのライヴは12回も行われた。
- 第4回:1986年3月15日 総武流山電鉄救済ライヴ。朝一番の始発電車をいっぱいにしようと、3月にもかかわらず雪がちらつく中、約1000人が集まった。
- 第5回:1986年5月24日 東京都台東区入谷の牛乳店に約2000人が集まる。客45人ずつのライヴを4回行ったところで、これ以上集まると危険ということで急遽、中野と河合が店員となって牛乳などを手売りして握手する形に変更された。
- 第6回:1986年8月1日 朝6:30から、東京都荒川区の区役所前の公園に約1000人を集めてラジオ体操が行われた。この日も徹夜した人がいたという。
- 1986年11月1日 自分の街にも是非着てほしいという要望が全国からも多く集まり、この日の仙台市の京呉服屋を皮切りに全国行脚がスタートする。このため、各地方局からの生放送も多くなった。
- ラスト:1987年3月29日 長野県南安曇郡堀金村(現・安曇野市)にて、本企画の集大成的村おこしライヴ。当時の堀金村の人口にほぼ相当するような、約9000人もの観客を集めた。東京からバスで来た人も多く、写真週刊誌・FOCUSなども取材に来るほどだった。この場で中野、「堀金村は臭いぜー!!」と絶叫する。
[編集] チャリ・伊豆・グランプリ
1987年7月31日、静岡県田方郡修善寺町(現・伊豆市)のサイクルスポーツセンターにて48名の参加者が集まり、「サンプラザ中野杯 伊豆トライアスロン」とローラースルーゴーゴー、キャタピラー、ホッピングの3種類のレースを合わせた4種目が行われる。トライアスロンではいきなり停電すると言うハプニングも起こった。参加者以外の観客だけでも約400人が集まり、最後は全員で尾崎紀世彦「また逢う日まで」を合唱した。
[編集] 1987年10月9日 最終回
この番組の最終回は、ラストで中野が言葉が詰まるほど涙に咽び、それだけに感動的な放送だったとして今でも時々語り草になることがある。
この日は放送前から約200人のリスナーが、最終回をすぐ近くで見守ろうとニッポン放送前に集まった。25:00の放送開始とともに、中野と河合の「ザ・花びら」が8階テラスからリスナーを“下にして”約30分間ライヴ。「水戸黄門」のテーマ、「ウルトラセブン」の主題歌、「タイガーマスク」のエンディングテーマ、「また逢う日まで」そしてザ・花びらのオリジナル曲「京葉フリーウェイ」「たにしの昼寝」などを歌う。
スタジオに戻ってからは、これまでのコーナー、企画をリクエスト形式で振り返る「いいぞいいぞやめちまえベストテン」、懐かしのテープ音源やリスナーからのコメントを聞きながらの放送だった。そしてラスト、所々で涙にくれる中言葉を搾り出すように訥々とラストメッセージを伝え、最後は「プロミス、プロミス、プロミス、ユー」の代わりに「ラジオの前のみんなにもう一度、ありがとう、ありがとう、ありがとう、さようなら」で終えた。
[編集] スタッフ
- ディレクター
- 松島宏(第1回から1987年3月まで担当。後番組となる「鴻上尚史のオールナイトニッポン」のディレクターも務める)
- 入江太乃士(1987年4月から最終回まで担当。のちに「デーモン小暮のオールナイトニッポン」も担当し、同番組でもおなじみとなる)
[編集] その他
- スポンサー、ハウス食品からこの番組に「これで何か面白いことをやって下さい」と500万円が提供され、これをきっかけに「チップスカンパニードリームジャンボ企画合戦」が立ち上がった。結局具体的な事が決まる前に本番組が終了してしまったが、後番組「鴻上尚史のオールナイトニッポン」がこれを引き継ぎ、「チップスカンパニー号ミッドナイトトレイン」としてこの企画は実現する事となる。
金曜1部 | ||
前担当: 山口良一 |
サンプラザ中野のオールナイトニッポン 金曜 25:00 - 27:00 サンプラザ中野 |
次担当: 鴻上尚史 |