輪島大士
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輪島 大士 | |
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四股名 | 輪島 大士 |
本名 | 輪島 博 |
生年月日 | 1948年1月11日 |
出身 | 石川県七尾市 |
身長 | 186cm(現役時) |
体重 | 132kg(現役時) |
所属部屋 | 花籠部屋 |
成績 | |
現在の番付 | 引退 |
最高位 | 横綱 |
生涯戦歴 | 673勝234敗85休 |
幕内戦歴 | 620勝213敗85休(62場所) |
優勝 | 幕内優勝14回 |
賞 | 殊勲賞3回 敢闘賞2回 |
データ | |
初土俵 | 昭和45年1月場所(幕下付出) |
入幕 | 昭和46年1月場所 |
引退 | 昭和56年3月場所 |
備考 | |
輪島大士(わじま ひろし、1948年1月11日 - )は、石川県七尾市出身で花籠部屋所属の元大相撲力士、全日本プロレス所属の元プロレスラー、元タレント。第54代横綱。本名は輪島博(わじま ひろし)。血液型A型。身長185cm。ニックネームは蔵前の星・黄金の左。現役後はワジー。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 大相撲時代
金沢高、日本大学と相撲部で活躍。真偽は不明だが、日大時代のテストでは、白紙の答案用紙に「日大相撲部、輪島」と書いておけば合格になったという伝説がある。大学では2年連続で学生横綱に輝くなど14個のタイトルを獲得した。学生横綱を決めた一番の相手は、同志社大学の逸見憲治(逸見政孝の実弟)であった。日大卒業後の1970年、花籠部屋(師匠は元幕内・大ノ海)に入門し、同年1月場所に幕下付出で初土俵を踏んだ。東農大出身の元小結・豊山(現・湊親方)は大学時代からのライバルである。
幕下を2場所連続で全勝優勝して当時の最短記録で十両入り、十両も4場所で通過して初土俵からわずか1年で新入幕を果たした。1972年9月場所では千秋楽に貴ノ花との水入りの大相撲を制して、場所後に貴ノ花とともに大関に昇進した。大関になって4場所目の1973年5月場所を全勝優勝で飾り場所後に横綱に推挙され、初土俵からわずか3年半という超スピード出世で横綱へ上りつめ、史上初の学士・本名横綱が誕生した。
同時に大関に昇進した貴ノ花とは、土俵を離れれば親友同士でもあった。「角界のプリンス」と言われた貴ノ花が、大横綱の大鵬や27歳の若さで急逝した玉の海と激闘を重ねたのに対し、「蔵前の星」と呼ばれた輪島は、ほんのわずかなタイミングのズレで大鵬とは対戦がなく、玉の海とも平幕時代に一度顔を合わせたのみである。それがかえって新しい時代を象徴する力士といった感を強くした。
学生相撲出身初の横綱であり、横綱になっても本名を四股名にしていたのは大相撲の歴史上でも輪島のみ(外国出身力士が帰化し四股名を本名とした例を除く)。右手の引きが強いこともあって左の下手投げを得意とし、「黄金の左」と言われ一世を風靡した。下手投げを得意とする力士は大成しないというジンクスを破っている数少ない例である。当時の大相撲では「力士は走ると腰が軽くなる」(相撲は「摺り足」が基本で、足の裏を地面から離す「走る」行為は基本に反する、という考えからか?)と言われていたが、輪島は通常のスポーツ選手と同じように積極的にランニングを行い(元祖は横綱・玉の海らしい)、「稽古」を「練習」と呼ぶなど、あらゆる面で型破りだった。こういった点から「相撲を取るために生まれてきた男」「天才」という声もあった。
小兵力士には絶対的な強さを見せたが、高見山大五郎等の巨漢力士に対しては脆さを見せる事も多かった。横綱・北の湖とは好敵手であり、2人で輪湖時代(りんこじだい)を築いた(北の湖との通算成績は23勝21敗で、ほぼ互角)。また、1973年11月場所では一場所15日制になった以降で唯一の、休場しながらの優勝(12勝2敗1休)という珍記録を持つ。ちなみに1989年3月場所で優勝した千代の富士も14日目の大乃国戦で左肩を脱臼して翌日の千秋楽を休場している(但し休場ではなく不戦敗の扱い)。
1973年7月の横綱昇進後は、輪島時代を築くかに見えたが、北の湖が急速に台頭し、74年には輪島の牙城を脅かすようになる。3月場所に大関に昇進した北の湖は破竹の勢いで5月に優勝、7月場所も輪島に1差をつけて千秋楽を迎えた。北の湖圧倒的有利の下馬評の中、輪島は結びの一番、優勝決定戦と立て続けに北の湖を得意の左下手投げで降し、横綱昇進は許したものの先輩横綱の意地を見せた。翌75年には本格的な輪湖時代到来かと思われたが、輪島が腰痛から3場所連続休場に追い込まれるなど大不振となる。貴ノ花の二度の優勝、北の湖の伸び悩みなどもあり、戦国時代の様相を呈するようになった。
だが輪島は復活した。1976・77年は真の輪湖時代を迎えたといってよい。12場所のうち輪湖両横綱による千秋楽相星決戦が4度、優勝決定戦が1度。優勝も輪島5回、北の湖5回と実力は全く伯仲していたと言ってよい。このころの両者の取り組みは、右で絞って北の湖に強引な上手投げを打たせ、下手投げを打ち返すかまたは右前廻しを引きつけて北の湖の腰を伸ばすのが輪島の勝ちパターン。北の湖が左下手廻しを引き、ガップリ四つになって胸を合わせるのが北の湖の勝ちパターンであった。1977年7月場所には1差で追う北の湖を退けて3度目の全勝優勝、同年11月には相星の北の湖を電光石火の切り返しで降し、大鵬に次ぎ双葉山と並ぶ史上第2位の12回優勝を記録した頃が、輪島の絶頂期であった。
78年に入ると、輪島は3月場所の右ひざ靭帯の怪我や年齢的なこともあり、北の湖の後塵を拝することが多くなる。この年ライバル北の湖は5連覇を達成した。しかし輪島は、この頃から右四つ左上手の取り口に進境を示し、千代の富士・栃光・栃赤城・双津竜など右四つ得意の力士には、むしろ自ら右四つに行き制する取り口が増えた。79~80年の晩年は、体力の衰えをこのいぶし銀の上手さと気力とで補い、前半戦は上位陣の中でも最も安定した相撲ぶりを見せることが多かった。若手が次々と台頭する中、79年7月、80年11月と二度の優勝を重ねたのは立派であると言えよう。
1981年3月場所中に引退し、停年退職間近であった師匠とバトンタッチする形で花籠部屋(※現在の花籠部屋とは別)を継承した。しかし、1985年2月に角界では前代未聞の、年寄名跡「花籠」を借金の担保にしていたことが表面化し、日本相撲協会は臨時の理事会を開催して委員から平年寄への2段階降格処分と無期限謹慎処分を決議した。結局これが原因で、妻・五月さん(師匠・大ノ海の長女、その後離婚)は自殺未遂、自身も1985年12月に廃業した(部屋は消滅、力士は放駒部屋へ移籍)。若乃花や輪島らの横綱を影で支えた、おかみさんの中島トミさんは、この輪島の不祥事により、貧乏部屋から辛酸を舐めながら苦労を重ねて隆盛させた花籠部屋が消滅したことを苦に、1986年5月23日の夕刻、老後のために購入した八王子市横川町の別荘の物置で、かもいに電気コードをかけ、首を吊った。65歳だった。
[編集] プロレス時代
大相撲を離れた輪島は、1986年に全日本プロレスに入門。ジャイアント馬場のツテでアメリカの名レスラーから指導を受ける。身体能力は高かったが、大相撲のクセが抜けずに「倒した相手を寝技に持ち込むことをせずに待ってしまう」という致命的な欠点があった。本人曰く「相撲では足より上が土俵(地面)に付くと負けになってしまうから、どうしても背中をマットに付けることに抵抗があった」とのこと。プロレスの基礎を十分学ぶだけの下積み期間がなかったのも事実といえる。
そういった経験不足の状態でありながら、全日本プロレス総帥のジャイアント馬場とタッグを組んで、アメリカにてデビュー戦を行う。ゴールデン・アームボンバー(喉輪落とし)で快勝したが、プロレスとしての見せ場を作る技術は低く、目の肥えたファンからは厳しい評価も下された。なお、チョークスラムはこのゴールデン・アームボンバーが技の原型とも言われている。
「お守り」として馬場が付いたタッグでのデビュー戦、移動の際に一般レスラーのようにバスでなく新幹線を使うなどのあらゆる特別待遇に他の選手が反発し、レスラー仲間がほとんどいなかった(もっとも、大物ルーキーの特別扱い自体は馬場自身など他にも例がある)。巡業中の輪島の様子を心配する記事が週刊プロレスにも掲載されている。しかし仲田龍によれば、輪島自身が馬場や会社から特別待遇を受けていることにあまり快く思わない他の選手のことを気にしていたらしく、若手レスラーに食事を奢ったり、随分年下のレスラーや社員にも敬語を使うなど、周囲に大変気を遣っていたそうである。リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、スタン・ハンセンとのPWFヘビー級新王者決定戦に出場するなど、視聴率がとれるせいかマッチメークでは優遇されていた。
レスラーとしての評価は決して高くなかったが、同じ大相撲出身の天龍源一郎との絡みは非常に激しいものだった。自らのバックボーンへのリスペクトを忘れない天龍は、その世界で最高峰を極めた輪島に対し「強くあってほしい」と願い、それが輪島への厳しい攻めにつながった。煮え切らない試合を続けていた輪島もそれに触発され、天龍が放つ容赦のない蹴り技を真っ向から受けるなど迫力ある対戦となった。相撲では格下だった天龍(天龍の生涯最高番付は前頭筆頭)が、格上の元横綱を激しく蹴りまくるという展開は、プロレスを八百長視していた層にも少なからぬ衝撃を与えたと言える。当時新日本にUターンしていた前田日明はこの2人の試合を見て「これはヤバイ。あんな事をやられたら、自分らの存在意義がなくなってしまう」と危機感を抱いていたという。
プロレスでは元大相撲横綱として特別扱いされ、「黄金の左」にかけた金色(実際は黄色)のトランクスで華々しくデビューした。だが、悪く言えば甘やかされた売り出し方に他の選手が反発し、また練習も積極的でなかっため「浮いていた」と言われる。必殺技ゴールデンアームボンバーが後ののど輪落としとして多くのレスラーに使われたり、同じ角界出身の天龍と激闘を展開したりとそれなりの活躍を見せたが、徐々に精彩を欠くようになり、大相撲時代から仲の良かったプロレスラー石川敬士の退団と同時に1988年12月に引退。「腰を痛めたため」という本人のコメントがあったが、盟友とも言える石川敬士の引退によって唯一の仲間がいなくなったことによる疎外感が引退理由の事実である。
[編集] プロレス引退後 ~輪島改め輪島大士:ワジー。
プロレス引退後は、大相撲解説などの他タレントとしても活躍。日本テレビ系「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」に準レギュラーで出演し、いわゆる天然ボケタレントとして活躍する。福澤朗アナウンサーの「好きな魚は?」の問いに、真顔で「マグロ!」(ブリと言う時もあった)、「好みの女性のタイプは?」の問いに、真顔で「金髪!」と叫ぶ姿が視聴者の笑いを誘った。この番組で、輪島お見合い企画を開催し、現在の夫人と再婚。また、とんねるずの石橋貴明からワジーと言うあだ名で呼ばれだし、ワジーと言う名称が定着する。また、この番組ではテロップが初めて出た事でも有名。 輪島の「マグロ!」「金髪!」の回答に江戸文字体や相撲字体・歌舞伎文字体のテロップが現れ、バラエティ番組に革命を起こす結果となった。また、滑舌が悪いことを表すためか、輪島の発言のテロップにはたとえ断定口調で話していても必ず「?」マークが加えられ『マグロ!?』という具合になっていた。この番組には輪島功一も準レギュラーで出演していたが、石橋貴明は功一の方は「功一」と呼び、輪島大士の方を「ワジー」と呼んでいた。なお、木梨憲武と輪島の共演はほとんどなく、木梨が輪島をなんと呼んでいたのかは不明。
その後、アメフト・Xリーグのクラブチーム「ROCBULL」の総監督に就任し、現在はキューバの相撲ナショナルチーム監督のほか、能登観光協会大使、石川県観光親善大使を務める他、地元の鮮魚販売会社スギヨのCMにスギヨふるさとの味大使として登場している。
[編集] 略歴
- 1970年1月 - 幕下付出で初土俵
- 1970年5月 - 新十両
- 1971年1月 - 新入幕
- 1972年11月 - 大関昇進(輪島 博 改め 輪島 大士)
- 1973年7月 - 横綱昇進
- 1981年3月 - 現役引退、年寄・花籠襲名
- 1986年 - 全日本プロレス入団
- 1988年 - プロレス引退
[編集] 天然ボケキャラクター・ワジー
- 角界において横綱と言う最高位に立ちながら、輪島は相撲以外の事は、全くと言って世間知らずな上に温厚な性格(幼少期はイジメられっ子だった)もあって、よく言えば純粋無垢な一面があった。そのため、年寄株を担保に入れて借金をした事など、処世術は上手いとはいえない。しかし、この天然ボケな一面が生ダラではブレイクし、タレント・ワジーとして愛される結果になった。
[編集] 主なネタ
- 大学時代
- 彼が大学に卒業した時の論文は、たった原稿用紙3枚分だけ。1枚目「卒業論文」、2枚目「輪島博」、3枚目「終」
- 日大相撲部に入学する時に上京してきて、ある食堂に入ってツケですませようとし、「石川県では有名人や、お役所は初めてでもツケが利くんですよ」と言って、渋々金を払った。
- 入試の際、輪島は相撲部・輪島博と名前を書いていたら合格できると思って白紙で答案を出した。
- 大相撲時代
- かつて「アップダウンクイズ」に出場した時、早押しボタンを押したものの答えがわからなくなり、「えっと~」と考え込んでいたら正解していた。ちなみに問題は「日本の歴史で鎌倉、室町、江戸のうち、時代が最も長かったのは何時代でしょう?」というものだった。
- 1970年代、銀座で飲んでいた輪島に電話がかかってきて相手が「横綱、ちょっと10円玉がないから一旦切ります。」というと、輪島は「いいよ。俺が10円入れれば、まだ話せるだろう。」と真顔で答えた。しかしマヌケなことに5秒後、電話が切れてしまった。
- 昭和47年大晦日の「日本レコード大賞」授賞式で、最優秀歌唱賞を受賞した和田アキ子に、輪島は白と黄色の菊の花の入った花束を持って祝福にやってきた。なお、菊の花をおくるのは不幸をイメージする事からタブーとなっている。
- 昭和48年九州場所の千秋楽に休場しているのに、優勝して登場したワジーは、インタビューで「私は今幸運に酔っている・幸運の女神様、来年もまた私のそばに来てください」ととんでもないコメントを残す。
- 史上36個の金星を与えた事にアナウンサーが「あの黄金の左はどこに行ったんでしょう?」と聞かれたとき輪島は「まだまだ健在です。昔は下手投げでしたが、今は金星を与えるので黄金の左と呼ばれています!」
- 花田勝氏が産まれた時に、誘拐未遂をし、貴ノ花に「何、人の息子誘拐してるんだよ!?」と言われて「俺、子供が好きなんだよ。俺、マジ欲しいよ!」
- 名古屋場所で部屋の宿舎ではなく一人でホテルに泊まっていたのは、蚊に刺されるのが怖かったから。なお、セミも大の苦手。輪島曰く「横綱が、蚊に刺された肌を見せるなんてお客さんに失礼でしょう」
- 大関昇進の際、協会の使者に対し「謹んでお受けいたします。。。。。。えっと、次、何て言うんですか?親方、お願いします。」この会見で、会場は爆笑の輪になった。 この時、カンペまで用意して忘れていた。* 初土俵後、2場所で十両になったので、髪が伸びずにマゲが結えなかったために総髪にパーマをあてていた。
- 同じく十両になって羽織のたたみ方が分からないので、同じ一門である佐渡ヶ嶽部屋の琴乃富士(輪島より4学年下で当時は幕下以下。のち前頭5枚目まで昇進)に「先輩。どうやってたたむのか、教えてくださいよ」。
- 花篭部屋から蔵前国技館に首都高速で、愛車のリンカーン・コンチネンタルで行く途中、事故があって渋滞になりパトカーで先導されて蔵前国技館にやってきた。そして「パトカーで先導されるなんて、横綱気分だねぇ」なお、当時の輪島は前頭の地位だった。
- 取り組みでの敗因を聞かれ「今日は俺のコンピューターが曲がった」
- 宿舎の名前を聞く記者に「ああ、ピオネ荘っていうんだ。ピオネ荘のピはパピプペポのペ」。
- 後援会員の息子にお年玉と言って10万円を毎年あげていた。
- 同じく、後援会員の息子の名付け親を頼まれて、すっかり忘れた挙句に出したのは「大士」。
- プロレス時代
- 花籠部屋を破門され、プロレスに入団する際のコメント。「(借金で)裸になったので、また裸で出直します」
- プロレス時代、ある友人の家に呼ばれて「冷蔵庫のもの、何でも食べていいよ」と言われて喰ったのはキャットフード。友人は「これキャットフードですよ」と驚いたが、輪島は「これ、おいしいね!」と言って、冷蔵庫の中のキャットフードを全部食べてしまった。この事件以来、キャットフード=コンビーフと(現在も)未だに信じている彼は、全日本プロレスに入団してジャイアント馬場御大(故人)の家で食事に招待されたが、元子夫人に「輪島さんは何が好みなんですか?」と言われて、輪島はすかさず「キャットフード!」これには、馬場御大も苦笑いを浮かべるしかなかった。
- 生ダラのエピソード
- 「とんねるずの生でダラダラいかせて」(以下、「生ダラ」と表記)で石橋貴明と定岡正二と共に謎のマスクマンとして変身するが、福澤朗アナウンサーの「好きな食べ物は何ですか?」の質問に「マグロ!」を連呼し、すぐにバレた。
- 「生ダラ」で石橋、定岡、保坂尚輝と一緒にハワイにマグロを釣りに行ったが、船酔いになった上にマグロは釣れずに甲板でマジ泣き。それを見た石橋は一言。「大人気ないぞ、ワジー!」
- 輪島が、生ダラで謎のマスクマンをしたが、その時の名前は「ザ・乙女」。ネーミングの由来は、実母・輪島乙女さん
- 同じく生ダラで、輪島はカメハメハ大王のコスプレをしたが、福澤の「好きな食べ物は?」の質問で「マグロ。」「好みの食べ物は?」という質問で「金髪」と言って、「輪島さんでしょ?」と言う問い掛けに、「私はカメハメハ大王だ!」と必死に弁解。
- 生ダラにKONISHIKIと出演した際、福澤アナの好きな食べ物はという質問に対しKONISHIKIは「寿司」その中でも好きなものは?と質問されたら「マグロ」と答え、それを聞いたワジーが(小錦を)抱きしめて頬にキスした。
- その他
- 「兄弟はいないが妹は一人いる」
- 女性の名前を尋ねたとき、「『きょうこさん』の『きょう』は東京の京ですか、それとも京都の京ですか?」
- 海外旅行に出かけた際、行き先で便所(WC)を「CMはどこだ」と尋ねた。
- タモリのボキャブラ天国で、輪島大使(マグマ大使のパロディ)に自ら出演した。
- 生ダラでの「マグロ」発言で、輪島の実家は漁師と思われていたが、ビストロスマップにゲスト出演した際、中居が同じ質問をした所「実は、実家はパン屋だったので、魚はごちそうだった」と述べている。
- 現役時代から(締め込みの色の)金色が好きなのか、今でもジャケットやネクタイの色は金色にしている。石川県発行の著名人録には金色のジャケットを着たワジーが写っている。
- 知人等の結婚式に出席する時は、タキシードを着用。理由は「紋付袴だと、現役時代の血が騒ぐんですよ。」
[編集] 主な成績
[編集] 大相撲時代
- 通算成績:673勝234敗85休
- 幕内成績:620勝213敗85休
- 幕内在位:62場所
- 横綱在位:47場所
- 幕内最高優勝:14回(うち全勝3回)
- 三賞:殊勲賞3回、敢闘賞2回
[編集] プロレス時代
[編集] 歌
- 望郷賦(1978年)
[編集] 関連作品
- 遠藤賢司 『輪島の瞳』
- 杉森久英 『天才横綱 輪島大士物語』(河出書房新社)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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