シトー会
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シトー会またはシトー修道会(ラテン語 Cistercienses)とは、フランスブルゴーニュ出身の修道士モレームのロベール(Robert de Molesme、1027年 – 1111年)によって起こされたカトリック教会ベネディクト会系の修道会。1098年、ロベールがフランスのシトーに設立したシトー修道院が発祥である。シトー会は、「聖ベネディクトの戒律」を厳密に守り、彫刻や美術による教示を禁止した点で、クリュニー会と対峙する立場をとった。
ロベールは元々クリュニー会の修道士であり、モレーム修道院院長であったが、「聖べネディクトの戒律」をめぐって修道士の間で対立が起き、内部分裂の結果ロベールはシトー修道院を設立した。その後、1099年にロベールが教皇ウルバヌス2世の命によりモレーム修道院に戻ると、シトーのアルベリック(Alberic of Citeaux, ? - 1108年)が後任として選出された。アルベリックが死去すると、スティーヴン・ハーディング(Stephen Harding, ? - 1134年)が後を継いだ。シトー会は、この3人を創立者としている。
シトー会が発展したのはクレルヴォーのベルナルドゥスの功績が大きく、1115年にクレルヴォー修道院が創立されるとベルナルドゥスが院長に任命され、クレルヴォー修道院はシトー会の重要な拠点となった。ベルナルドゥスはシトー会のみならず、カトリック教会およびヨーロッパ全体に非常に大きな影響力をもち、それに伴いシトー会も大きな発展を遂げた。しかし、ベルナルドゥスの死後、シトー会は徐々に衰退していき、また国際紛争、疫病の流行などの社会情勢から地域ごとのグループに分裂していった。さらに、フランス革命によって決定的な打撃を受けて一時はフランス国内から姿を消したが、革命終了後に亡命していた修道士がフランス国内に戻ると復興し、現在のシトー会が作られた。このとき、フランスノルマンディー地方のトラップ修道院で行われていた、厳格な規律を元にしたのが厳律シトー会(トラピスト会)である。現在は、厳律シトー会は独立した修道会となっており、(寛律)シトー会と分かれている。
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