シャルル・フランソワ・デュムーリエ
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シャルル・フランソワ・デュムーリエ(Charles Francois Dumouriez, 1739年1月26日 - 1823年3月14日)は、フランス革命期の軍人。革命政府を裏切ってオーストリアに身を投じ、衝撃を与えた。
[編集] 生涯
カンブレで陸軍会計監査官の息子として生まれ、10代で騎兵連隊付き士官となり七年戦争に従軍。1763年にサン・ルイ十字賞を受けた。1768年、ジェノヴァ共和国の要請を受けたフランス王国によってコルシカ平定に出陣。また、スペインとポルトガルの宮廷に対するフランスの使命(スパイ活動)に奉仕した。ついでポーランドとスウェーデンとの外交使節団に加わったが、外交工作資金の一部を賭博のために着服したのでバスティーユに投獄された。
その後釈放されて、1778年から1790年までシェルブール駐屯軍司令官となった。革命になると、ミラボー、ラファイエット、オルレアン公やジャコバン派に接近。1792年2月に少将から中将に昇進し、3月15日にはジロンド派内閣の陸軍大臣に就任し、ついで外務大臣も兼任、国王に宣戦を進言した。ジロンド派内閣が解散するのに伴って外務大臣を辞任。ブリッソーの好戦的政策を採用してオーストリアに宣戦布告し、大将として北部軍を指揮してケレルマン将軍とともに9月、ヴァルミーの戦いでプロシアに勝利を収めた。ついでジェマップの戦いでオーストリアに勝ってベルギーを占領。12月29日にパリに凱旋した。
しかし、フランス軍の明白な劣勢条件にもかかわらず、デュムーリエはオランダに対する攻撃を主張。1793年2月16日、2万の兵を率いてオランダに入ったが、3月1日にオーストリアの総司令官コーブルクの軍隊がベルギーのフランス軍に襲いかかった。敗北は恐ろしいものだった。パリではこれらの敗北のショックで、愛国熱が高まり、3月9日には革命の敵を裁くため革命裁判所が設立されたほどだった。やがてベルギーが失われた。デュムーリエは退去したが、続いて3月18日、ネールヴィンデンで敗北した。
その数日後、デュムーリエはオーストリアのコーブルクと取引をして、パリに進撃して武力で国民公会を解散し、王制を再建しようと考えた。デュムーリエは勝手にベルギーの明け渡しを約束し、即刻実行された。そして自分を罷免するために派遣された公会の委員を逮捕すると、オーストリア軍に引き渡し、軍隊を引き連れてパリに向かおうとしたが、この時将校だったダヴーは、配下のヨンヌ義勇兵第3大隊ととも国境を越えてコンデのキャンプに入っていた。パリ進軍の計画が知れ渡ると、義勇兵大隊の指揮官らは今後の進路を話し合い、なかなか結論が出ない中、新たな派遣議員団が到着してデュムーリエの逮捕状を発行した。ダヴーは心を決めると、本営のあったサンタマンにむけて前進を開始。コンデとサンタマンとの中間地点でデュムーリエに出会って説得を受けるが、これをはねつけるとデュムーリエの追撃にかかった。デュムーリエは敵陣めがけて一目散に逃亡するが、ある溝の前で乗馬がしり込みしたため、ルイ・フィリップの乗馬に2人乗りして敵の戦列中に逃げ込んだ。また、ある川のほとりでは秘書を置き去りにした。ダヴーはデュムーリエの拘束には失敗したが、将軍の乗馬と秘書を伴ってコンデに戻ることができた。
オーストリア入国後は、亡命貴族を支援しようとしたが、信用されなかった。全ヨーロッパを放浪し、1800年にイギリスに亡命してここで定住した。第一帝政下ではウェリントン公の顧問としてスペインで活動したのち、王政復古後は帰国しようとしたが王家から拒絶され、イギリスで不遇の内に没した。
[編集] エピソード
デュムーリエには、フェルニッヒ姉妹という女性副官(愛人だったとも言われている)がいた。姉妹は軍人であった父親に付き従って革命戦争に従軍していた。デュムーリエの「回想録」には、この姉妹のことが記されている。デュムーリエの逃亡劇の際、姉妹は彼と行動を共にした。
カテゴリ: フランス革命関連人物 | フランス革命期の軍人 | 1739年生 | 1823年没