プロイセン王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
プロイセン王国(Königreich Preußen)はホーエンツォレルン家の支配したドイツ北部の王国。プロシア王国、プロシャ王国ともいう。
首都は事実上ベルリンであったが、同君連合体制だった時代には形式上ケーニヒスベルクが王国の首都だったことになる。
1701年1月18日、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世はケーニヒスベルクにおいて戴冠し、初代プロイセン王フリードリヒ1世となった。これより1918年11月9日に第9代プロイセン国王兼第3代ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位するまでプロイセン王国は続いた。
バルト海沿岸の地域としてのプロイセンについてはプロイセンを参照せよ。
目次 |
[編集] 王国の誕生
プロイセン王国の基幹となるブランデンブルク選帝侯領とプロイセン公国がヨーハン・ジギスムントのもとで同君連合となったのは1618年のことだった。フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯は1660年、プロイセン公国をポーランド、スウェーデンの宗主権から解放した。これによってその子フリードリヒ3世は「プロイセンにおける王」を名乗ることができたのである。
ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は1701年1月18日ケーニヒスベルクにおいて戴冠し、プロイセンの王フリードリヒ1世となった。目前に迫ったスペイン継承戦争のために兵力を集めていた神聖ローマ皇帝レオポルト1世は、8000の兵を援軍として派遣することを条件に、フリードリヒの王号を認めたのである。しかし1700年11月16日に結ばれたこの王冠条約が認めた称号は、神聖ローマ帝国の領域外の「プロイセンにおける王」(König in Preußen)に過ぎず、「プロイセン国王」(König von Preußen)という王号ではなかった。それでもバロックの時代における王という称号の魅力は非常なもので、フリードリヒ1世が帝国内外のあちこちに散らばった世襲領の臣下たちの心を1つにまとめることに成功したことは確かであった。
フリードリヒ1世はルイ14世に倣った華美な生活を愛し、大変な浪費家であった。その浪費は常に国庫を圧迫し続けたが、王は教養人でもあり芸術と科学のアカデミーを設立、シャルロッテンブルク宮殿を造営し、首都ベルリンを開拓地から「シュプレー河畔のアテネ」と呼ばれる文化都市に作り変えた。プロイセン科学アカデミーの初代院長はライプニッツである。またこのころ彫刻家アンドレアス・シュリューター(Andreas Schlueter)がフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯の騎馬像を制作している。
このころプロイセン王国の領域は、ホーエンツォレルン家の世襲したブランデンブルク選帝侯国(厳密な意味ではブランデンブルクその他の帝国内の領地は王国には含まれない)とプロイセン公国、そのほか若干の各地に散らばったいくつかの小さな領地を合わせたものだった。これらばらばらの領土は防衛に不利なことはなはだしく、プロイセンを守ることはすなわちこれらをつなぎ合わせるための不断の膨張を意味していた。代々の国王は地理的な統合を求めて相続・侵略を繰り返していくことになる。
[編集] 軍国プロイセンの発展
フリードリヒ1世は1713年に崩御し、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が即位した。「兵隊王」とあだ名されたこの王は、父王とは正反対の性格であった。質実剛健を旨として宮廷費を8割削減、ヴィンケルマンのようなアカデミーの学者たちはあまりの待遇のひどさにプロイセンを去るほどで、執務中は服がインクで汚れないよう袖カバーを着用するなどの極端な節約家ぶりは人々を驚かせたが、王はそれによって生じた余剰金を全て軍事費に振り分けたため、プロイセン常備軍は4万から8万にふくれあがった。またペストによって人口の減少した東プロイセンに、フランスから亡命してきたユグノーたちを有利な条件で誘致したり、輸出入を管理して国内産業の保護に努めたりしたので、王国は繁栄にむかった。1720年に大北方戦争の終結によって結ばれたストックホルム条約で、プロイセンは前ポンメルン、ウーゼドム島などを獲得している。
「大王」フリードリヒ2世の時代、プロイセン王国はさらなる繁栄を迎える。フリードリヒ2世は即位した1740年に多くの啓蒙主義的な改革を行い、拷問の廃止・宗教寛容令・アカデミー復興・新聞の創刊などによって、ベルリンは再び自由な気風を持つ学芸の都となった。兵隊王の残した軍隊はさらに増強され、豊かなシュレージエンを侵攻、オーストリア継承戦争と七年戦争という2度の苦しい戦いを耐え抜き、1763年のフベルトゥスブルク条約でシュレージエンの領有が確定する。1772年にポーランド分割により西プロイセン、エルムラント、ネッツェを獲得し、大王の治世の間にプロイセン王国の領土と人口は約2倍に、常備軍は22万になった。プロイセン王はもはや誰はばかることなく「プロイセン国王」(König von Preußen)を名乗ることができた。大王の後を継いだ甥のフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の時代もプロイセン王国は成長を続け、1792年と1795年の2度のポーランド分割によって、ダンツィヒ、トルンおよび新東プロイセンと南プロイセンもその版図に加えた。1789年にはラングハンスが王の命により、ギリシャの列柱門を模したブランデンブルク門をベルリンに建設している。
[編集] 危機と改革の時代
しかし続くフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の時代はプロイセンにとって危機の時代だった。国王は暗愚にして軍隊は旧態依然、意気揚がるナポレオン軍にかなうはずもなく、1807年のティルジット条約によってエルベ川以西の領土は全て失われ、領土と人口は約半分になった。王妃ルイーゼはこのとき優柔不断な国王を激励し、自らもナポレオンと会談するなどしてプロイセンの存続に尽力したため、非常な尊敬を集めた。危機は改革を呼び、シャルンホルストやグナイゼナウ、クラウゼヴィッツが軍制改革を、シュタイン(Stein)に続いてハルデンベルク(Hardenberg)侯爵が自由主義的改革によって農民解放、行政機構の刷新を行った。
フランスによる支配はドイツ人に民族としての自覚を生み、フランスからの解放者としての役割をプロイセンに求める人々が現れた。芸術はロマン主義の時代に入り、ハインリヒ・フォン・クライストやフィヒテのような熱狂的愛国者がナショナリズムを鼓吹したため、ドイツ統一を目指す運動が始まったが、プロイセンはまだそのような一部の自由主義者の理想とは程遠かった。
[編集] 復古と反動の季節
ブリュッヘル将軍は1815年のワーテルローの戦いでナポレオンを破り、プロイセンは再び大国となる。1815年のウィーン会議でプロイセンは、ポーランド分割で獲得した領土の一部を事実上ロシアに譲ることになったものの、ティルジット条約以前の領土に加えてザクセン王国の北半分、ヴェストファーレン、ラインラントを獲得し、人口は1000万に達した。同年にはドイツ連邦にも加盟し、盟主であるオーストリア帝国とその勢力を二分した。しかしこの時代はプロイセンにとって精神的な停滞を招く反動の時代だった。ロシア・オーストリアと結んだ神聖同盟によって、1815年におこったブルシェンシャフト運動などの自由主義的潮流は弾圧され、1819年のカールスバート決議の後、エルンスト・モーリッツ・アルントやシュライエルマッハーは追放、体操の父ヤーンは逮捕される。
この時代、政治的には保守・反動が主導権を握っていたが、長く続いた平和のおかげで産業は飛躍的に発展し、農業国だったプロイセンの工業化が進んだ。駅馬車の交通網が発達して時刻表が発行されるようになり、1818年蒸気船がブランデンブルクの運河を航行を始めた。1837年にベルリンにはボルジヒ(Borsig)鉄工所が建設され、1838年9月21日にはポツダム―ツェーレンドルフ間に鉄道が開通した。1834年のドイツ関税同盟はプロイセン中心のドイツ経済圏を形成した。
1830年に即位したフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は王権神授説を信奉する保守主義者だったが平和を愛し、自由主義者とは宥和的な態度をとった。王は3月前期(フォーアメルツ Vormärz)に続く1848年のベルリン3月革命では、市民軍と国王軍の衝突を避けるため軍をベルリンから退去させたのである。しかし革命は右派と左派の対立によって自壊した。1849年、自由的ドイツ愛国者たちはフランクフルト国民議会に集い、プロイセン国王に帝位を捧げようとしたが、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は自由主義による下からの統一を嫌って戴冠を拒否した。1850年、国王は上からの恩恵として欽定憲法を発布する。この憲法によって制限選挙に基づく議会が設立され、国民には臣民としての人権が保障された。
[編集] ドイツ帝国の盟主
1860年にヴィルヘルム1世が即位したとき、議会の自由主義勢力は伸長し、国王の軍に対する最高指導権さえ否定されて、ヴィルヘルム1世は退位寸前に追いやられたほどだった。しかしそのとき、パリ駐在プロイセン大使であったビスマルクが呼び戻されて宰相となり「鉄血政策」を唱えて保守派の勢力を盛り返したため、プロイセンは再び軍事力による大国化を進めることになった。
プロイセンは1864年にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争によってシュレスヴィヒおよびホルシュタイン公国を獲得した後、オーストリア帝国と軋轢を生じたが、ビスマルクの巧妙な外交によって他国の介入は防がれた。プロイセンは1866年の普墺戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となり、ヘッセン・ナッサウとハノーファーを獲得した。続く1870年から1871年までの普仏戦争にも参謀総長モルトケらの活躍によって勝利し、エルザスとロートリンゲン(フランス語ではアルザス・ロレーヌ)を併合、プロイセン国王は1871年にヴェルサイユ宮殿で統一ドイツの皇帝となった。
この後、プロイセン王国はドイツ帝国の中に組み込まれ、ドイツ帝国の盟主でありながら国家としての意識を徐々に失っていく。プロイセン人はプロイセン人であるよりもむしろドイツ帝国臣民であることを誇るようになり、プロイセンの独自の気風は忘れられていった(プロイセン軍人の中に僅かに残された)。ヴィルヘルム2世がプロイセン王を名乗ることはほとんどなく、ただ「カイザー」(Kaiser)とのみ呼ばれるようになる。1918年のドイツ革命によって王政は廃止され、プロイセン王国は滅んだが、それよりも前にプロイセンと呼ぶべき存在はほとんど滅び、エルベの古いユンカーやプロイセン軍人たちの意識にわずかに保たれていたに過ぎなかったのである。そして第二次世界大戦によって旧プロイセン王国地域はソ連やポーランドによって分割され、名実ともに消滅した。
ドイツ帝国時代のプロイセン王国についてはドイツ帝国を参照。
[編集] 歴代プロイセン王
- フリードリヒ1世(1657年 - 1713年、在位:1701年 - 1713年):ブランデンブルク選帝侯としてはフリードリヒ3世
- フリードリヒ・ヴィルヘルム1世「兵隊王」(1688年 - 1740年、在位:1713年 - 1740年)
- フリードリヒ2世「大王」(1712年 - 1786年、在位:1740年 - 1786年)
- フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(1744年 - 1797年、在位:1786年 - 1797年):大王の弟アウグスト・ヴィルヘルムの長子
- フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(1770年 - 1840年、在位:1797年 - 1840年)
- フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(1795年 - 1861年、在位:1840年 - 1861年)
- ヴィルヘルム1世(1797年 - 1888年、在位:1861年 - 1888年):フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の弟
- フリードリヒ3世(1831年 - 1888年、在位:1888年)
- ヴィルヘルム2世(1859年 - 1941年、在位:1888年 - 1918年)