ジャン・ジュネ
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ジャン・ジュネ(Jean Genet, 1910年12月19日 - 1986年4月15日)は、フランスの作家。パリ生まれ。
公共施療院に生まれる。7ヶ月で母に捨てられる。父の名前は未だに知られていない。職人の家に預けられ、公立小学校で学んだ。成績はよかったが、後に養父母のもとを去る。14歳以降、成人するまで感化院で生活する。志願兵となったが、後に脱走。フランスを離れ、ヨーロッパを放浪。逮捕に監禁、強制退去を繰り返す。その間も、泥棒や乞食や男娼を経験。
1942年、中央刑務所に投獄される。このとき、詩集『死刑囚』が出版される。これが、ジャン・コクトーに認められる。 同年『花のノートルダム』、1944年『薔薇の奇蹟』を執筆。終身禁固刑の求刑を前に、ジャン・コクトーらが介入。1944年、自由となる。
その後、1947年『ブレストの乱暴者』、『女中たち』、1949年『泥棒日記』など戯曲や小説を執筆。醜悪な世界を、ジャン・ラシーヌを思わせる文体を以って、聖的なものとして描く所に主な特色がある。1948年、コクトーやジャン=ポール・サルトルらの請願により、大統領の恩赦を獲得。
1950年には白黒映画"Un Chant d'Amour"を制作。映画はこれ1本だが、脚本や戯曲を書いてもいる。
この後、サルトルのジュネ論『聖ジュネ』(1952年)もあいまって、執筆を止める。その後、1956年『バルコン』、1961年『屏風』など戯曲を執筆。1967年、自殺未遂。その後、五月革命に政治参加し、ベトナム戦争反対運動に加わる。徐々に移民問題に関心を寄せるようになる。
1970年、黒人自治を目指して闘うブラック・パンサーと行動を伴にし、アメリカ中で講演を行う。同年、PLOの提案で、ヨルダンに留まって、アラファトと会見する。以降、精力的な政治活動を続けた。この後も幾度か中東に赴いている。
ブラックパンサーやPLOなどでの体験は、遺作『恋する虜』に結実する。
アルベルト・ジャコメッティとの親交はよく知られている。ジャック・デリダによる、ヘーゲル及びジュネ論の『弔鐘』がある。