パレスチナ解放機構
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パレスチナ解放機構(パレスチナかいほうきこう)は、イスラエル支配下にあるパレスチナを解放することを目的とした諸機構の統合機関。アラビア語名はمنظمة التحرير الفلسطينية (Munazzamat al-Tahrīr al-Filastīnīya)、英語名はPalestine Liberation Organizationで、略称はPLO。
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[編集] 歴史
1964年5月の第一回アラブ首脳会議で成立したアラブ連盟により設立され、イスラエル建国で難民となったパレスチナ人(パレスチナのアラブ人)の対イスラエル闘争の統合組織となり、反イスラエルの中心勢力となった。1967年の第三次中東戦争がアラブ諸国側の敗北に終わると、ゲリラ組織や労働運動組織などを主体とするパレスチナ人の民衆的運動として再編され、ヨルダンで反イスラエル闘争を行って越境攻撃を撃退するなどの大きな戦果をあげ、パレスチナ人の間に名声を高めていたファタハが加入した。1969年2月、ファタハの指導者ヤーセル・アラファートがPLO第3代議長に就任し、ファタハを中心に機構を再整備、実質上のパレスチナ亡命政府となる。
結成当初は「ユダヤ人を海に突き落とせ」という反ユダヤ主義のスローガンが掲げられたが、ファタハは反ユダヤ主義の立場を退け、「パレスチナ解放とは多民族・多宗教共存の世俗国家の樹立である」と打ち出す。一時期には、PLO中央委員会に、ユダヤ人のメンバーもいた。
拠点ははじめヨルダンのアンマンにあったが、ファタハがたびたびイスラエルに対するテロ事件を起こしたことから1970年のブラック・セプテンバーでヨルダンを追われ、活動の拠点をレバノンのベイルートに移した。1974年には国際連合総会オブザーバー資格を手に入れてアラファート議長が国連本部で演説を行い、パレスチナを公的・国際的に代表する機関として国際的な認知を得るに至る。しかし、1982年のレバノン戦争でレバノンにイスラエルが侵攻してきたため、レバノンを追われて本部を再びベイルートからチュニジアのチュニスに移さなくてはならなかった。
1987年末から巻き起こったインティファーダでは、海外からパレスチナのイスラエル占領地内の蜂起指導者たちと連絡を取り合って支援する一方、1988年11月には、「シオニスト国家打倒によるパレスチナ解放」から「イスラエルと共存するヨルダン川西岸地区およびガザ地区でのパレスチナ国家建設」へと方向転換を行い、議決機関のパレスチナ国民評議会で独立宣言を採択した。
しかし、1990年のイラクのクウェート侵攻に始まる湾岸戦争では、イラクのサッダーム・フセインがPLOの支持を打ち出し(イラクが侵略者なら、イスラエルも侵略者であり、イスラエルに肩入れするアメリカのやり方はダブルスタンダードだと主張したことによる)、PLOの側もイラクに近い動きを見せたため、国際的にイラク寄りとみなされて孤立。イラクと対立するペルシア湾岸諸国からの援助を打ち切られて財政的にも苦境に陥った。
1991年にはスペインのマドリードで中東和平会議に出席するが和平交渉に行き詰まった。しかし、この頃からノルウェーの仲立ちでオスロにおいてイスラエル政府と秘密交渉を行い、1993年にイスラエル政府とPLOの相互承認とガザ地区・西岸地区におけるパレスチナ人の暫定自治を定めたオスロ合意にこぎつけた。
オスロ合意の結果、PLOは武装闘争路線の放棄を約束し、イスラエルとの間にパレスチナ暫定自治協定を締結。アラファート議長はイスラエルのイツハク・ラビン首相とともにノーベル平和賞を受賞した。暫定自治のためのパレスチナ自治政府はPLOを基盤に設立され、その元首(大統領)にはPLOのアラファート議長が就任する。
しかし、その後はアメリカを仲介にイスラエルのバラク首相とオスロ合意で定められた包括的解決に向けた和平交渉を進めるが、進展しなかった。パレスチナ内部では、「和平粉砕」を掲げるハマースが93年から自爆テロを開始し、主に難民や貧困層での支持を広げた。2000年に、当時のイスラエル国防相アリエル・シャロンのエルサレム訪問に反発する暴動からパレスチナ全土でのアル=アクサー・インティファーダに発展する。この二度目のインティファーダで主流を演じたのはPLOではなく、イスラム主義系の組織ハマースであり、アラファトらPLO主導部を「官僚化し腐敗した」と批判するファタハ内の「(80年代)インティファーダ世代」と言われる若手グループ(主に「アル=アクサー殉教団」)だった。イスラエルはこの第二次インティファーダに対して全面的な軍事鎮圧に乗り出し、やがて全面戦争に発展していく過程で、ハマースと「アル=アクサー殉教団」は、競うように自爆テロ戦術を激化させていく。
2004年にはパレスチナ自治政府の元首とPLOの議長を兼ねてパレスチナの唯一最高の指導者として長年活躍してきたアラファート議長が病死し、反テロを掲げる穏健派として知られるマフムード・アッバース事務局長が後任の執行委員会議長に就任した。
[編集] 組織
PLOは全パレスチナ人を代表する機関と自己規定しており、その主な主張は、パレスチナ人の民族自決権や離散パレスチナ人の帰還権である。政治路線としては、かつては武装闘争によりイスラエルからパレスチナを解放することをうたい、イスラエルが占有する領土全てを含めた全パレスチナに、イスラム教徒、キリスト教徒などからなるパレスチナ人と、ユダヤ教徒のユダヤ人が共存する民主的・非宗教的な独立国家を樹立することを目標とした。すなわち、PLOの主張においては、パレスチナ問題の対立軸はイスラム教徒とユダヤ教徒あるいはアラブ人とユダヤ人の対立ではなく、宗教的に多様なパレスチナ人と宗教的に排他的なユダヤ教徒シオニストとの対立であるとみなされている。
その基盤としては、最高議決機関のパレスチナ民族評議会があり、議会に相当する機能を果たす。また、憲法に相当するものとしてパレスチナ国民憲章を定めている。
政治事項の執行を担当するのは執行委員会で、PLOの最高指導者である議長を中心として内閣に相当する機構をなす。その下部には各省庁にあたるものとして政治局、国際局があり、さらにファタハ加入後の武装闘争路線を支えるため、正規軍にあたるパレスチナ解放軍が設立された。
パレスチナ自治政府の結成後、パレスチナ解放軍は自治政府に移管され、自治区の治安を担うパレスチナ警察隊となった。PLO自体は存続し、その後もイスラエルとパレスチナの間の唯一の正式の窓口として重要な役割を占めたが、自治区の施政上の機能は自治政府に奪われ、次第に存在感を薄れさせている。
[編集] 参加組織
現在参加
脱退
- DFLP
- アブ・ニダル