ジャービル・イブン=ハイヤーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アブー・ムーサー・ジャービル・イブン・ハイヤーン(Abu Musa Jabir ibn Hayyan, アラビア語: جابر بن حيان الأزدي, ラテン名ゲベルス Geberus またはゲーベル Geber、ジーベル 721年? – 815年?)は、アッバース朝時代のイスラム世界の哲学者、学者。後に11世紀にかけて続くイスラム科学黄金期を築く元祖とされる。彼の業績は中世ヨーロッパの錬金術に多大な影響を及ぼすとともに、近代の化学の基礎を与えた。
ジャービルは半ば伝説的な存在であり、その実像を正確に定めることは難しい。生年は721年あるいは722年ともいわれる。生地はホラーサーン(現在のイラン北東部およびアフガニスタン北西部)とされる。彼の父は化学、薬学者であった。イエメンで学業を修め、後にアッバース朝下のクーファ(現在のイラク)で活躍、その地で没した。815年あるいは808年ともいわれる。アッバース朝最盛期のカリフであるハールーン・アッ=ラシードに宮廷学者として仕えた。
化学、薬学、冶金学、天文学(あるいは占星術)、哲学、物理学、音楽などに亘る彼の著作は400を越えるとも言われているが、残存するものは20程度である。その中には彼の名に仮託した後世の著作と思われるものも含まれている。
彼の業績は化学、薬学の分野が顕著である。彼が発明したとされる、塩酸、硝酸、硫酸の精製と結晶化法などは現在の化学工業の基礎となっている。金などの貴金属を融かすことのできる王水も彼の発明によるものである。彼はまた有機化合物であるクエン酸、酢酸、酒石酸などの発見者ともされている。発明は化学器具にも及んでいる。彼が工夫した蒸留装置はランビキ (alembic) として、現在も使われている。化学にとって重要なアルカリの概念も彼によって産み出された。
彼の思想は古代ギリシャ、古代エジプト、イスラム教の中の神秘思想が総合されていると考えられている。彼が敬意を払う人物はヘルメス・トリスメギストス、アガトダイモーン(Agathodaemon、ギリシャ神話の「慈悲の悪魔」)、ピタゴラス、ソクラテスなどであった。
彼の著作は中世ヨーロッパの錬金術に大きな影響を与えた。12世紀にラテン語に翻訳されたアラビア語原題 Kitab al-Kimya (黒き地の書、Kimya は Khem の転じたものでエジプトのことを指すとされる)は錬金術 (Alchemy) の語源となっている。 金属の性質は硫黄と水銀の比率で変性するとする、硫黄ー水銀説は中世ヨーロッパにも引き継がれた。
ただし、彼の著作とされているものに、後世の弟子たちが書いたものも多いとの疑いは、早くも10世紀には指摘されていた。 中世ヨーロッパにとって、もっとも主要な化学教科書的存在であった 『マギステリウム完成の梗概』(Summa perfectionis magisterii)は彼の名に依っているが、現存するものは13世紀以降のラテン語訳のみで、原著とみられるアラビア語のものは残っていない。 このため、この書は彼の名によって13世紀のヨーロッパで著作されたものではないかとの見方は多く、「疑ジーベル」あるいは「偽ジーベル」(Pseudo-Geber)の書と呼ばれることもある。
確かなことは、当時のヨーロッパで彼の名がもっとも権威があると認められていたことである。