ジュール・ブリュネ
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ジュール・ブリュネ(Jules Brunet, 1838年1月2日 - 1911年8月12日)江戸幕府の軍隊近代化を援助するため派遣されたフランス軍事顧問団の一員として来日し、榎本武揚がひきいる旧幕府軍に参加した。
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[編集] 経歴
1838年アルザス地方のベルフォール(現・フランシュ=コンテ地域圏テリトワール・ド・ベルフォール県)に生まれた。エコール・ポリテクニクを卒業後、陸軍士官学校、陸軍砲兵学校を卒業し、陸軍砲兵少尉に任官した。その後砲兵中尉としてメキシコ戦争に出征し、レジオンドヌール勲章を受けた。
[編集] 軍事顧問団
ナポレオン3世は開国した日本との関係を深めるため、徳川慶喜との関係を強め、1866年対日軍事顧問団を派遣することを決めた。ジュール・ブリュネはシャノワーヌ参謀大尉を隊長とする軍事顧問団の副隊長に選ばれ、フランス陸軍砲兵大尉として1867年の初めに日本に到着した。軍事顧問団は横浜大田陣屋で幕府伝習隊を1年以上訓練したが、1868年の戊辰戦争で江戸幕府は官軍に敗北した。フランス軍事顧問団は勅命によって日本から立ち去るよう新政府から命令された。
しかしジュール・ブリュネとその仲間は残留を選択した。彼らはイタリア大使館での舞踏会の夜、脱走して榎本艦隊に合流、北海道に向かった。シャノワーヌ隊長は参加しなかった。
[編集] 箱館戦争
ジュール・ブリュネは箱館(後の函館)で江戸幕府の海軍総裁であった榎本武揚提督を総裁とする蝦夷共和国の創設を支援した。彼は箱館の軍事的防衛の支援も行い、軍隊はフランスと日本のハイブリッドな司令部によって構成された。最高司令官大鳥圭介をジュール・ブリュネが補佐し、4個旅団はフランス人士官(フォルタン、マルラン、カズヌーヴ、ブッフィエ)を司令官としていた。1869年6月、五稜郭に立て籠もる800人の箱館政権軍を8,000人の明治新政府軍が攻撃し、五稜郭は陥落、総裁・榎本武揚らは新政府軍に投降した。フランス人らは陥落前に箱館港に停泊中のフランス船に逃れた。
[編集] 名誉回復
ジュール・ブリュネは裁判のためフランスに送還されたが、折りしも1870年の普仏戦争が勃発して軍に復帰することを許された。セダンの戦いでプロイセン軍に包囲された仏軍はナポレオン3世以下全軍降伏し、ブリュネも捕虜となったが、間もなくフランス政府が講和を結んだため、釈放されてパリ・コミューン鎮圧に参加した。その後の詳しい経歴は不明だが、1898年には戦争相シャノワーヌの下でフランス陸軍参謀総長にまで登りつめている。奇縁とも云うべきか、シャノワーヌは日本でフランス軍事顧問団の隊長だった人物である。
ジュール・ブリュネの物語は2003年のアメリカ映画『ラストサムライ』の主人公ネイサン・オールグレン大尉のモデルとなったとされる説がある。
[編集] 参考文献
- 鈴木明「追跡ー一枚の幕末写真」(集英社文庫)
(英語版に関係写真が掲載されている。)
[編集] 外部サイト
- 関連写真集(日本語)
- ジュール・ブリュネの叙事詩(フランス語)