パリ・コミューン
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社会主義 |
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パリ・コミューン(仏Commune de Paris/英Paris Commune)とは、1871年3月26日にパリで民衆が蜂起して誕生した革命政府である。世界初の労働者階級の自治による民主国家、と評される。社会主義的な政策も打ち出し、短命ながらパリ・コミューンの誕生は後の社会主義・共産主義の運動にも大きな影響を与えた。
同年3月3日からマルセイユ、リヨン、サン・テティエンヌ、トゥールーズ、ナルボンヌ、グルノーブル、リモージュなどの地方都市でも同様のコミューンの結成が宣言されたが、いずれも短期間で鎮圧された。
[編集] 背景
1789年の大革命以来、1871年まで、フランスでは共和政体が2度(第一共和制および第二共和制)見られたが、いずれも短命に終わり、残りの長い年月は第一帝政、復古王政、7月王政、第二帝政といった君主制が幅を利かせていた。しかし、第2帝政下の1870年7月に皇帝ナポレオン3世はプロイセンとの戦争(普仏戦争)を十分な準備を経ず開始したが故に、たちまち敗北を喫し、そのうえセダンの戦いにおいて皇帝自身も捕虜となり、帝政は崩壊した。そして、1870年9月4日、臨時の国防政府が設けられ、第三共和制の成立が宣言される。
国防政府下で戦争は続行。1870年の末から翌71年にかけての冬の間、プロイセン軍によって包囲されたパリでは食糧不足が深刻となり、1871年1月28日にはついに政府はプロイセンに対して正式に降伏した。国民議会がボルドーに招集され、降伏後の和平交渉を担うティエール首班の臨時政府が誕生。しかし、パリ包囲に対して抵抗し、多大なる犠牲を払ったパリ市民はプロイセンに対する降伏を認めず、蜂起。同年3月に革命政府パリ・コミューンを樹立した。
[編集] 革命政権
パリ市民による選挙が行われた後、1871年3月28日にコミューンの成立が宣言され、以後同年5月20日までパリを統治することとなる。その間、女性参政権の実現、児童夜間労働の禁止、政教分離などの革新的な政策が打ち出され、また暦も共和暦が用いられた。なお、選ばれた議員の中には写実派の画家であるクールベも名を連ねている。
ヴェルサイユに置かれた臨時政府による攻撃と北ドイツ連邦軍の封鎖により、最終的に血の1週間と呼ばれる戦闘により多くの死者を出して瓦解、5月28日にパリは鎮圧された。第三共和国政府はコミューン兵士の死体を葬ることを許さなかった(結局悪臭で迷惑になったため禁令が解かれる)。また亡命したコミューン活動家にも追及の手が及んだ。しかしパリ・コミューンは短命ながらも民衆によって打ち立てられた歴史上初の革命政権として、社会主義者に具体的なイメージを与えた。
なおカール・マルクスは『フランスの内乱』を執筆し、コミューン戦士の名誉を擁護するとともに、コミューンの事業からプロレタリア革命理論を抽出した。この著作の中でマルクスはコミューンを労働者階級のための国家と規定し、社会主義革命におけるプロレタリア独裁の必要を説いている。
[編集] その他
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