ジョセフィン・ベーカー
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ジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker、1906年6月3日 - 1975年4月12日)は、アメリカ・セントルイス出身のジャズ歌手である。フランス語読みで「ジョゼフィーヌ・バケル」とも呼ばれる。
生まれたときの名前は、フリーダ・ジョセフィン・マクドナルド(Freda Josephine McDonald)。1937年、フランス国籍を取得している。「黒いヴィーナス」の異名をとった。
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[編集] 生涯
[編集] 若年期
ジョセフィンは、ユダヤ系スペイン人のドラム奏者エディー・カーソン(Eddie Carson)と黒人の洗濯婦キャリー・マクドナルド(Carrie McDonald)との間の私生児として、ミズーリ州セントルイスで生まれた。彼女は、非常に貧しい環境の中で育つ。1917年7月2日、彼女はセントルイスで民族差別を経験し、これが彼女が後に人種差別撤廃運動に熱心に肩入れする背景となる。13歳で、母親によりかなり年配の男性と結婚させられるが、数週間しか結婚生活は続かなかった。そのあと家出。1921年、彼女は鉄道車掌のウィリー・ベーカー(Willie Baker)と結婚し、1925年に離婚するが、この苗字を彼女はその後もしばらくの間使用している。
[編集] デビュー
彼女のキャリアは、16歳でフィラデルフィアのスタンダード劇場でのデビューから始まる。その後すぐニューヨークに行き、ちょうど半年間アメリカを巡業していたボードビル・グループに参加。1923年-1924年、ニューヨークのでミュージカルコメディ「シャッフル・アロング(Shuffle Along)」でコーラスガールの役を得、その後、黒人のレビューグループ、チョコレート・ダンシーズ(The Cholocate Dandies)のメンバーとなる。ニューヨークのプランテーション・クラブに出演した後、1925年10月2日、パリのシャンゼリゼ劇場に出ていたレビュー・ネグロに加わることになる。
このダンスで彼女は、初めてチャールストンを目の当たりにしたパリの観客たちの心をたちまちにして我が物としてしまう。アンドレ・レビィンソン(André Levinson)は、「ジョセフィンは、不恰好な黒人のダンサーだとか思ったらとんでもない間違いで、彼女こそ詩人ボードレールが夢に見た褐色の女神」と熱狂して賛辞を送り、アーネスト・ヘミングウェイは「これまで見たことのある最もセンセーショナルな女性」と称えた。レビュー・ネグロは、さらにブリュッセル、ベルリンでも公演を行い、ドイツではベルリンのクァフュルステンダムのネルソン劇場で1926年1月14にドイツでの初演を行っている。1926年-1927年、彼女はまさにフォリー・ベルジェールのスターだった。彼女は、ルイ・ケーナシャンの2つのレビューに出演、有名なバナナを腰の周りにぶら下げただけの衣装で踊る。
[編集] 注目
1926年の末に彼女は、それまで彼女のショーの美術を手伝っていたシチリアの石工ジョゼッペ・ぺピート・アバチーノ(Giuseppe Pepito Abatino)と結婚し、世間の話題を一身に集める。アバチーノは、ディ・アルベルティーニと自称していたが、ジョセフィン・ベーカーの恋人兼マネージャーの役につく。当時、彼女は、ラングストン・ヒューズ、パブロ・ピカソ、アーネスト・ヘミングウェイなど同時代の作家、画家、彫刻家にとっての美の女神となった。
ベーカーは、世間の目からすれば、ヨーロッパの貴族の称号を持つことになった初めてのアフリカ系のアメリカ人女性ということになった。建築家のアドルフ・ロースは1928年、ジョセフィン・ベーカーのために白黒の大理石の正面玄関を持つ家を設計した、もっともそれは実際に建築するまでには至らなかったが。想像を超えたエロティックな衣装と踊りのために彼女は、ウィーン、プラハ、ブダペスト、そしてミュンヘンの劇場では出演を禁止されるに及ぶ。それほどまでに彼女はセンセーショナルな存在になったのである。
東ヨーロッパと南アメリカ公演旅行の後、彼女は今度は歌手としてもデビューを果たす。「二つの愛」(J'ai deux amoures)、「ハイチ」(Haiti)、「かわいいトンキン娘」(La Petite Tonkinoise)、「かわいいベイビー」(Pretty Little Baby)は、彼女の最も成功した歌である。彼女は映画にも出演し、「南海の女王」(La Sirène des Tropiques、1927年)、「はだかの女王」(Zouzou、1934年)、 そして「タムタム姫」(Princesse Tam-Tam、1935年)で主演をしている。忽ちにしてフランスで最も成功したアメリカ人にのし上がった彼女は、そのために祖国アメリカでは、人種的な差別、偏見に人一倍さらされることとなった。1936年アメリカで、ジークフェルト・フォリイのショーでメンバーから外され、それにショックを受ける。また私生活でも、あまり幸福ではなかった。1937年、ジョセフィン・ベーカーはフランスの市民権を取得する。
[編集] 私生活
ジョセフィン・ベーカーは、6度の結婚を経験している。最初は鋳物工場の職人、ウィリー・ウェルズ(1919年結婚し、離婚)、列車のポーターウィリアム・ハワード・ベーカー(1921年結婚し、離婚)、ジョゼッペ・ぺピート・アバチーノ(1926年結婚、一種の宣伝行為、法的には拘束力なし)、フランスの製糖業界の大物ジャン・リヨン(1937年 - 1940年)、フランスのバンドリーダー、ジョー・ブイヨン(1947年結婚、1957年別居、そのまま離婚)、そしてアメリカ人のアーティスト、ロバート・ブラッドレー(1928年 - 1986年、結婚したのは1973年、但し法的拘束力のないもの、1974年に分かれてている)の6人である。
[編集] その後
第二次世界大戦の最中を、彼女はフランスと北アフリカで過ごした。彼女はフランス軍の前面に出て、レジスタンスや秘密情報部の活動に携わった。彼女はまた飛行士の資格も取得し、中尉になっている。戦後、これらの功績によりレジオン・ドヌール勲章などを授与された。
彼女はフランスで生活していたが、1950年代には既にアメリカの公民権運動の支援に手を貸している。彼女はまたさまざまな人種の12人の孤児を養子とし、人種差別に徹底して立ち向かった。こうした仕方で、彼女はまさに虹色のような家族を作り上げ、しばしば経済的な危機に瀕しながらもフランスの古城で生活を共にした。
1954年には来日を果たし、京都の弥栄会館で公演を行い人気を博した。1956年、彼女はついに舞台からの引退声明を発表したが、1961年には早くもカムバックし、1973年にはカーネギー・ホールでの公演で大成功を収めている。
[編集] 死去
1975年4月8日、彼女の芸能生活50周年を祝うショーの初日の公演が行われた。その直後、脳溢血に襲われ、4月12日死去した。
ジョセフィン・ベーカーは、数多くの自叙伝を執筆し、その都度彼女のキャリアや家族のことについて食い違いを見せている。彼女は、フランスの戦没者慰霊碑にその栄誉を称えられた最初のアメリカ人でもある。彼女はモナコの墓地に埋葬されている。数奇な彼女の人生は、映画、TVドラマ、舞台劇でもしばしば取り上げられている。
[編集] 引用
- “私は、舞台で野蛮人の役をやらされて以来、普段の生活では努めて文明人でいようと努力してきたの。” —ジョセフィン・ベーカー
[編集] 出演映画
- La Sirène des tropiques (1927) ... aka Siren of the Tropics
- Zouzou (1934)
- Princesse Tam Tam (1935)
- Moulin Rouge (1941)
- Fausse alerte (1945) ... aka The French Way
- An jedem Finger zehn (1954) ... aka Ten on Every Finger
- Carosello del varietà (1955)
- Grüsse aus Zürich (1963) (TV)
[編集] 外部リンク
- ジョセフィン・ベーカーの公式サイト - 英語サイト
- ジョセフィン・ベーカーの写真ギャラリー - 英語サイト
カテゴリ: アメリカ合衆国の歌手 | 1906年生 | 1975年没