パブロ・ピカソ
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パブロ・ピカソ(Pablo Picasso, 1881年10月25日 - 1973年4月8日)はスペインに生まれ、フランスで制作活動をした画家・彫刻家。キュビスムの創始者であり、20世紀以降で最も有名な芸術家である。生涯におよそ13,500点の油絵と素描、100,000点の版画、34,000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な画家であるとギネスブックに記されている。
フルネーム(洗礼名)は聖人や縁者の名前を並べた長いもので、長い名前の例としてよく引き合いに出される。諸説あるが、講談社が1981年に出版した『ピカソ全集』によると、〈パブロ、ディエーゴ、ホセー、フランシスコ・デ・パウラ、ホアン・ネポムセーノ、マリーア・デ・ロス・レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、デ・ラ・サンティシマ・トリニダード〉[1]である。ピカソ自身は自分のフルネームに無関心で、はじめパブロ・ルイス・ピカソと名乗り、ある時期から父の名のルイスを省き、パブロ・ピカソと名乗るようになった。
尚、一部電子掲示板にてピカソの血液型について触れたものがあるが、ピカソの血液型についてのデータはそもそも存在せず、これらの情報は全て恣意的に捏造されたものである。
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[編集] 作風
ピカソは作風がめまぐるしく変化した画家として有名であり、それぞれの時期が「○○の時代」と呼ばれ、親しまれている。ピカソは幼いときから絵が上手かったので、それに飽きてわざと下手な絵を描くようになったのだと言う人もいる。主なものはつぎの6つである。
- 親友カサヘマスの自殺にショックを受け、青く暗い色調で軽業師、アルルカン、売春婦、乞食、芸術家などを描いた「青の時代」(1901-1904)。
- フェルナンド・オリヴィエという恋人を得て、明るい色調でサーカスの芸人などを描いた「バラ色の時代」(1904-1907)。
- アフリカ彫刻の影響を強く受けた「アフリカ彫刻の時代」(1907-1908)。
- ブラックと二人でキュビスムを突き詰めていった「分析的キュビスムの時代」(1909-1912)。
- コラージュ技法を発明した「総合的キュビスムの時代」(1912-1918)。
- 古典的かつ量感のある母子像を描いた「新古典主義の時代」(1918-1925)。
[編集] 私生活
ピカソは仕事をしているとき以外には、一人でいることができなかった。パリでは、モンマルトルの洗濯船やモンパルナスに住む芸術家の仲間、アンドレ・ブルトン、ギヨーム・アポリネール、ガートルード・スタインらと頻繁に会った。
正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。ピカソは生涯に二回結婚し、3人の女性との間に4人の子供を作った。ピカソがパリに出て最初に付き合ったのはフェルナンド・オリヴィエだった。富と名声を得たピカソは、つぎにエヴァという名前で知られるマルセル・アンベールと付き合った。ピカソは彼女を讃えるために、作品の中に「私はエヴァを愛す」(J' AIME EVA)、「私の素敵な人」(MA JOLIE)などの言葉を書き込んだ。しかし彼女は癌を患い、1915年に亡くなった。
1916年、ピカソはディアギレフ率いるロシアバレエ団の舞台美術を担当した(ジャン・コクトー作『パラード』)。そこでバレリーナのオルガ・コクローヴァと知り合い、1918年に結婚した。オルガはピカソをパリの上流階級の社交界に引き入れ、ブルジョア趣味を教えた。ふたりのあいだには息子〈パウロ〉が生まれた。ピカソははじめのうちこそ妻に調子を合わせていたが、しだいに生来のボヘミアン気質が顔を出し、衝突が絶えなくなった。
1927年、ピカソは17才のマリー・テレーズ・ワルテルと出会い、密会を始めた。ピカソはオルガと離婚しようとしたが、資産の半分を渡さねばならないことがわかり、中止した。ピカソとオルガの結婚は、1955年にオルガが亡くなるまで続いた。ピカソはマリー・テレーズと密会を続け、1935年に娘〈マイア〉が生まれた。
またピカソは1936年から1945年まで、カメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係をもった。彼女はピカソ芸術のよき理解者であり、『ゲルニカ』の制作過程を記録した。
1944年、ピカソは若い画学生、フランソワーズ・ジローと付き合い始めた。そして〈クロード〉と〈パロマ〉が生まれた。しかしフランソワーズはピカソの嗜虐趣味と浮気癖に耐えかね(註・彼女の主張による)、1953年に2人の子をつれてピカソのもとから去った。このことは、ピカソに大きな打撃を与えた。
しかしピカソはすぐにつぎの愛人をみつけた。ジャクリーヌ・ロックという女性で、南仏ヴァロリスの陶器工房で働いていたところをピカソに見そめられた。1961年に結婚。しかし、これにはピカソのフランソワーズに対する意趣返しという目的が隠されていた。当時フランソワーズはクロードとパロマの認知を得る努力をしていたので、ピカソはフランソワーズに「別の男性との結婚を解消すれば、入籍してあげよう」と誘いかけた。フランソワーズが離婚すると、ピカソはすでにジャクリーヌと結婚していたというわけである。
このころピカソは、ジャン・コクトー監督の映画『オルフェの遺言-私に何故と問い給うな-』(1960年)に、彼自身の役でカメオ出演した。
なおピカソの死後、マリー・テレーズとジャクリーヌ・ロックは自殺した。
[編集] 平和主義
ピカソが平和主義者だったのか、それともただの臆病者だったのか、現在でも議論が続いている。第一次世界大戦、スペイン内戦、第二次世界大戦という3つの戦争に、ピカソは積極的に関わらなかった。フランスの2度にわたる対ドイツ戦争では、スペイン人であるピカソは招集されずにすんだ。スペイン内戦では、ピカソはフランコとファシズムに対する怒りを作品で表現したが、スペインに帰国して共和国市民軍に身を投じることはしなかった。ピカソは青年時代にも、カタルーニャの独立運動のメンバーたちとつきあったが、けっきょく運動には参加しなかったという経歴がある。
スペイン内戦中の1937年、バスク地方の小都市ゲルニカがフランコの依頼でドイツ軍に空爆され、多くの死傷者を出した。この事件をきっかけに、ピカソは有名な『ゲルニカ』を制作した。死んだ子を抱いて泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったようにいななく馬などが強い印象を与える縦3.5m・横7.8mのモノトーンの大作であり、同年のパリ万国博覧会のスペイン館で公開され、大きな反響をよんだ。
スペイン内戦がフランコのファシスト側の勝利で終わると、ピカソは自ら追放者となって死ぬまでフランコ政権と対立した。『ゲルニカ』は長くアメリカのニューヨーク近代美術館に預けられていたが、スペインの民主化が進んだ1981年、遺族とアメリカ政府の決定により〈スペイン国民〉に返還された。現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されている。
1940年にパリがナチス・ドイツに占領されたとき、ピカソはパリにとどまった。ナチスがピカソの絵の公開を禁じたので、ひたすらアトリエで制作し続けた。ナチスは資源不足を理由にブロンズ塑像の制作を禁止したが、地下抵抗組織がひそかにピカソに材料を調達したので、制作を続けることができた。
[編集] 共産党員
1944年、ピカソはみずからフランス共産党に入党し、死ぬまで共産党員であり続けた。しかし、その間には、友人のアラゴンの依頼で描いた『スターリンの肖像』(1953年)が批判されるなど、党内のスターリン主義とは合わなかった。
[編集] 晩年
1950年代、ピカソは過去の巨匠の作品をアレンジして新たな作品を描くという仕事を始めた。有名なのは、ベラスケスの『ラス・メニーナス』をもとにした連作である。ほかにもゴヤ、プッサン、マネ、クールベ、ドラクロワで同様の仕事をした。
1955年にはクルーゾー監督の映画、『ミステリアス・ピカソ/天才の秘密』の撮影に協力した。
ピカソの最晩年の作風は、彼がそれまで経てきたスタイルの混合である。ピカソは最後のエネルギーを制作に注入し、より大胆に、カラフルで激しい絵を描いた。
1968年、彼は347点におよぶエロティックな銅版画を制作。多くの批評家がこれを「不能老人のポルノ幻想」、あるいは「時代遅れの画家のとるにたらぬ絵」とみなした。長い間支持者として知られたダグラス・クーパーさえ、「狂った老人の支離滅裂な落書き」と評した。
時間がたってみると、晩年のピカソは、後の新表現主義を先取りしていたことに気づかされる。ピカソは死ぬまで、時代を先取りする画家であり続けたのである。
[編集] その後
ピカソは1973年の死の時点で、大量の作品を手元に残していた。またアンリ・マティスらの作品を交換や購入によって相当数持っていた。フランス政府は遺族から相続税としてこれらの作品を受け取り、1985年に国立ピカソ美術館を開館した。一作家の美術館としては世界最大の規模を誇るもので、ピカソの作品だけで油絵251点、彫刻と陶器160点、紙に描かれた作品3000点を所蔵している。2003年にはピカソの遺族が、彼の出身地であるスペインのマラガにピカソ美術館を開館した。
1996年、映画『サバイビング・ピカソ』が公開された。フランソワーズ・ジローとピカソの関係を描いたもので、アンソニー・ホプキンスがピカソを演じた。
2004年、ニューヨークのサザビーズの競売で、ピカソの『パイプを持つ少年』(1905年)が1億416万8000ドル(約118億円)で落札され、絵画取り引きの最高額を更新した(現在はクリムトの『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I』の1億3500万ドル(約156億円)が1位)。2006年5月には、同じくサザビーズの競売で『ドラ・マールの肖像』(1941年)が9521万6000ドル(約108億円)で落札された。
2006年10月、ラスベガスのホテル王で美術品収集家としても知られるスティーブ・ウィン(64)が、1億3900万ドル(約165億円)で別の収集家に売却する予定だったピカソの名画「夢」に過ってひじを食らわせ、直径約2.6センチの穴をあけてしまった。事件を目撃した友人がインターネットのブログに書き込みをして詳細が発覚した。ウィンは97年にこの絵を4840万ドル(約58億円)で購入し、長年大切にしてきた。もうすぐお別れとなる絵の前に立ち、友人らに説明していたところ、誤って名画の真ん中に穴を開けてしまった。結局、契約はないことになり、名画は修理され、ウィンの元にとどまることになった。ウィンは穴を開けた瞬間、「何てことをしてしまったのか。でも(破ったのが)私でよかった」と話したという。
[編集] 年表
- 1881年、スペイン南部のアンダルシア地方のマラガに生まれた。長男。父はアンダルシア地方サン・テルモ工芸学校美術教師のホセ・ルイス・ブラスコ。母はマリア・ピカソ・ロペス。
- 1884年、妹ローラ誕生
- 1887年、次の妹コンチータ誕生
- 1891年、ガリシア地方 ラ・コルーニャに移住。父ホセ・ルイス・ブラスコは、同市ダ・グワルダ工芸学校美術教師、地域の美術館の学芸員に赴任。
- 1892年、ラ・コルーニャの美術学校に入学。
- 1895年、バルセロナに移住、美術学校に入学。
- 1897年、父の指導のもとで描いた古典的な様式の『科学と慈愛』がマドリードで開かれた国展で佳作を受賞、マラガの地方展で金賞を受賞。同年秋、マドリードのサン・フェルナンド王立アカデミーに入学。だが、ピカソは宮廷画家を目指すことの無意味さを悟り、中退する。
- 1898年、オルタ・デ・エブロで療養
- 1899年からバルセロナに住み、若い芸術家たちと交わりながら熱心に絵を描く。
- 1900年、カサヘマス、パリャーレスと共に、はじめてパリを訪れ、バルセロナとパリを数度行き来する。
- 1901年、「若い芸術」誌(マドリー)創刊。6月、パリで初の個展。青の時代の開始。
- 1902年10月、パリで、マックス・ジャコブと共に住む
- 1903年、バルセロナへ帰る
- 1904年4月、詩人のマックス・ジャコブによって〈洗濯船〉と名付けられたモンマルトルの建物に部屋を借り、パリに腰を据える。
- 1905−1907年、ばら色の時代(Rose Period)
- 1905年、オランダへ旅行
- 1906年、スペインへ旅行
- 1907年、「アヴィニョンの娘たち」製作
- 1912年、モンパルナスへ移る
- 1913年、セレに滞在
- 1914年、アヴィニョンに滞在
- 1916年、パリ郊外モンルージュに映る
- 1917年、バレエ「パレード」の装置、衣装を製作
- 1918年1月、オルガと結婚。パリ ラ・ボエシーに移る
- 1919年5月、ロンドンで「三角帽子」の装置、衣装を製作
- 1920年、「プルチネルラ」の衣装を製作。新古典主義時代
- 1921年、息子ポール誕生
- 1922年、コクトーの「アンティゴーヌ」の装置、衣装を担当
- 1924年、バレエ「メルキュール」(ディアギレフ)の装置、衣装を製作
- 1928年、彫刻に専心し始める
- 1930年、「ピカソ夫人像」、カーネギー賞受賞
- 1931年、「変身譚」の挿絵を制作
- 1932年、マリ・テレーズ・ヴァルテルと共同生活を始める
- 1934年、スペインへ旅行、「闘牛」連作を描く
- 1935年、娘マハ誕生。 詩作。
- 1936年、人民戦線政府より、プラド美術館長に任命
- 1937年、「フランコの夢と嘘」(エッチング)出版、「ゲルニカ」製作
- 1939年、ニューヨーク近代美術館で個展、「アンティーブの夜漁」を描く
- 1940年、占領下のパリへ帰る。
- 1941年、戯曲「尻尾をつかまれた欲望」を書く。
- 1944年、フランス共産党入党
- 1945年、ロンドンと、ブリュッセルで個展
- 1946年、フランソワーズ・ジローと共同生活
- 1947年、息子クロード誕生。陶器製作
- 1949年、娘パロマ誕生。
- 1951年、「朝鮮の虐殺」製作
- 1952年、「戦争と平和」のパネルを製作
- 1953年、リヨン、ローマ、ミラノ、サンパウロで個展
- 1954年、ジャクリーヌ・ロックと共同生活
- 1955年、カンヌ「ラ・カルフォルニ」に住む
- 1958年、「イカルスの墜落」製作(パリ、UNESCO 本部)
- 1964年、日本、カナダで個展
- 1966年、パリ グラン・パレ、プティ・パレで回顧展
- 1968年、版画に専心、半年間に347点を製作
- 1970年、アヴィニョン法王庁で140点の新作油絵点。 バルセロナピカソ美術館開館
- 1973年4月8日、ムージャンで死去
[編集] 参考図書
- ^ 神吉敬三(編著) 『ピカソ全集1』 講談社、1981年。