スティーヴィー・レイ・ヴォーン
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スティーヴィー・レイ・ヴォーン(Stevie Ray Vaughan, 1954年10月3日 - 1990年8月27日)は、アメリカのブルース・ギタリスト、作曲家、歌手。本名はStephen Ray Vaughan (スティーヴン・レイ・ヴォーン)。その演奏スタイルはエレクトリック・ブルースの一つの頂点と考えられており、後進の音楽家に巨大な影響を与え続けている。
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[編集] 来歴
テキサス州ダラス近郊のオーク・クリフに生まれる。高校を中退した後、音楽家の道を志してオースティンに向かい、そこで同じく白人のエレクトリック・ブルース・ギタリスト、ジョニー・ウィンターの目にとまる。彼の紹介でクラブに出演出来るようになったスティーヴィーは、「ポール・レイ・アンド・ザ・コブラス」というバンドで活動を開始し、1970年代中盤までにシングルを3枚発売している(2枚は単なる「コブラス」名義)。
1975年、スティーヴィーは新しいバンド「トリプル・スレット・レヴュー」を結成。結成時のメンバーは、その後兄ジミー・ヴォーンと来日もするルー・アン・バートン(ヴォーカル)、W.C.クラーク(ベース)、マイク・キンドレッド(キーボード)らであった。因みにクラークとキンドレッドは、後にスティーヴィーの持ち歌として知られるようになる"Cold Shot"の作者である。このバンドの2代目ドラマーとして加入したのが後々までスティーヴィーと行動をともにしたクリス・レイトンであった。1978年にバートンがバンドから脱退。残されたメンバー、スティーヴィー、クリス、ジャッキー・ニューハウス(ベース)は「ダブル・トラブル」と名乗り活動を続行する。スティーヴィーがリード・シンガーも兼任するようになったのはこの時からである。ちなみにバンド名はオーティス・ラッシュの曲から採られている。
1981年にベーシストが元ジョニー・ウィンター・バンドのトミー・シャノンに交替。「ダブル・トラブル」の陣容は完成する。この頃までにはオースティンを代表するエレクトリック・ブルース・バンドになっていた「ダブル・トラブル」の中心人物であるスティーヴィーには、ジャクソン・ブラウンら大物音楽家からの共演依頼が届くようになる。中でも最も重要な転機をスティーヴィーに与えたのがデヴィッド・ボウイである。
ボウイはまず1982年のモントルー・ジャズ・フェスティバルのバックにダブル・トラブルを起用。ここでは観客の趣味の傾向もあってさほど好評ではなかったが、ボウイは1983年のアルバム「レッツ・ダンス」にスティーヴィーを起用することを決める。また同年、「スティーヴィー・レイ・ヴォーン&ダブル・トラブル」名義で最初のアルバム「Texas Flood(ブルースの洪水)」を発表。ブルースのアルバムとしては異例の大ヒット(50万枚を売り上げてゴールド・ディスク獲得)となる。またシングル「プライド・アンド・ジョイ」はシングルチャートでも上昇し、トップ20入りを果たす。
1984年には2作目となる「Couldn't Stand the Weather」を発表。1985年1月に来日。これは彼にとって唯一の日本ツアーとなってしまった。ここでは、発表を間近に控えていた「Soul to Soul」から"Say What!"も演奏される。このツアーで前座を務めたのはギタリストの鈴木賢司だった。同年キーボードにリース・ワイナンズが加入し、3作目「Soul to Soul」を発表。同作のジャケットには来日時に購入したものと思われるお守りが写っている。
2作目、3作目ともにゴールド・ディスクを獲得するが、この後スティーヴィーは麻薬とアルコールに侵されはじめる。結局スティーヴィーは本格的な麻薬中毒とアルコール中毒の治療の為、入院しなければならなくなるのである。麻薬中毒の治療はジョージア州アトランタで行われた。
1989年、復帰したスティーヴィーはアルバム「In Step」を制作。グラミー賞を獲得する。またこの年、ジェフ・ベックとともに全米ツアーを行っている(当時の『ギター・マガジン』誌によれば、ヘッドライナーはスティーヴィーで、観客の反応も圧倒的にスティーヴィーの方が良かったとされている)。
いよいよスティーヴィーの全盛期が始まったかと思われた矢先、悲劇が起こる。1990年8月26日、スティーヴィーはウィスコンシン州イースト・トロイのアルパイン・ヴァレイ・ミュージック・シアターで行われたブルース・フェスティバルに出演。エリック・クラプトン、バディ・ガイ、ロバート・クレイ、ジミー・ヴォーンらと共演した後、彼はシカゴ行きのヘリコプターに乗り込む。実はこのヘリコプターは本来彼が乗る予定ではなかったのであるが、一人分だけ席が空いたので、急遽乗れることとなったのである。しかしこれが運命の分かれ道となった。濃霧の中飛び立ったヘリコプターは、8月27日未明にアルパイン・ヴァレイ・リゾートの空中電線に接触して墜落。スティーヴィーは帰らぬ人となる。
彼の葬儀は故郷のダラスで盛大に行われた。この時、彼が活動の中心としていたオースティンに駆けつけてしまい、急いでダラスに向かったファンも存在したと言われている(『ギター・マガジン』誌の追悼記事による)。
[編集] 没後
1990年、実兄のジミー・ヴォーンとともに録音していた音源が「Family Style」というタイトルで発表される。名義は「ヴォーン・ブラザーズ」である。また1991年には未発表音源が「The Sky is Crying」というタイトルで発表される。
1991年、テキサス州知事は彼の誕生日である10月3日を「スティーヴィー・レイ・ヴォーン・デイ」に制定。毎年この日はオートバイのイベントとチャリティ・コンサートが開催され、収益金は「スティーヴィー・レイ・ヴォーン奨学金」の資金となっている。「スティーヴィー・レイ・ヴォーン奨学金」は音楽を専門的に学ぶ若者を支援する奨学金で、スティーヴィーの故郷オーク・クリフにあるグレイナー・ミドル・スクールの8年生に支給されている。
1992年、フェンダー社はスティーヴィーの愛器であった1962年製ストラトキャスター・モデル(通称「ナンバー・ワン」)のレプリカを発売。このレプリカはフェンダー社の定番商品となり、現在までも生産され続けている。
1994年、オースティン市はスティーヴィーのコンサートが数多く行われた市内のリゾート地「タウン・レイク」にスティーヴィーの銅像を設置した。
スティーヴィーは現在、故郷ダラスのローレル・ランド・メモリアル・パークに眠っている。
[編集] 機材
スティーヴィーは一貫してフェンダー社のストラトキャスター・モデルを愛用した。中でも最も有名な「ナンバー・ワン」は、彼がそれまで使用していたストラトキャスターの修理を頼みにある楽器店を訪れたところ、壁に展示されていた中古のストラトキャスターに一目惚れして、交換してもらったものと言われている(『ギター・マガジン』誌の追悼記事による)。
このギターの仕様は以下の通りである。本体とネックは1962年製。ボディ材はアルダー、ネックはローズウッド指板。フレットはジム・ダンロップ社の6100番。搭載されていたピックアップは1959年製である。一説によれば製造工程のミスで巻きが多いものを選んで換装されたと言われているが、この経緯について学術的な調査が施されたわけではない。ネック・シェイプは太めのDシェイプ。トレモロ・ユニットは左利き用のものに換装されている。彼が死んだ時点でボディ材とネック以外の全ての部品が後から搭載されたものだったとされる。
使用エフェクトはアイバニーズ・チューブスクリーマー(808と9の両方を使用)、ジム・ダンロップのクライベイビー、オクターバーなどが定番で、コーラスやフランジャーもたまに使用された。アンプは62年製フェンダー・ツインリバーブとハンドメイドのダンブル・アンプが中心でったが、他にもフェンダー・ヴァイブロバーブやフェンダー・スーパーリバーブも使用された。
彼の遺したギターは1963年製のメイプルネック・ストラトキャスター(通称「レニー」)がオークションで売却された以外は全てジミー・ヴォーンが所有している。
[編集] 影響を受けたギタリスト
スティーヴィーが影響を受けたギタリストとして真っ先に挙げていたのが兄ジミー・ヴォーンである。他はアルバート・キング、ヒューバート・サムリン(ハウリン・ウルフのバンドで活躍したギタリスト)、ラリー・デイヴィス、ライトニン・ホプキンス、アルバート・コリンズらブルース・ギタリストたち、またジミ・ヘンドリックス、ロニー・マックからの影響も顕著である。
[編集] 来日公演
唯一の来日公演が1985年1月に行われた。詳細は以下の通り:
STEVIE RAY VAUGHAN and DOUBLE TROUBLE JAPAN TOUR 1985
- 1/20(日) 大阪・厚生年金会館中ホール
- 1/21(月) 名古屋・雲龍ホール
- 1/23(水)、24(木)、25(金) 東京・芝郵便貯金会館(現メルパルクホール)
メンバー:
Stevie Ray Vaughan - guitar, vocal
Chris Layton - drums
Tommy Shannon - bass
招聘:音楽舎
[編集] 外部リンク
スティーヴィー・レイ・ヴォーン・デイ公式ウェブサイト http://www.srvrideandconcert.org/about_the_event.htm
*Official website