スパルタクスの反乱
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スパルタクスの反乱は、紀元前73年から紀元前71年にかけてイタリア半島で起きた、古代ローマ共和国の剣闘士・奴隷による大規模な反乱である。
シチリア島での奴隷による大規模な反乱(紀元前139年-紀元前131年、紀元前104年-紀元前99年)に続くものとして第三次奴隷戦争、または剣闘士(グラディエーター)戦争とも呼ばれる。
第一次世界大戦期のドイツの政治組織「スパルタクス団」の名はこれに由来している。
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[編集] 背景
紀元前3世紀後半にイタリア半島を統一したローマは、紀元前2世紀に入り、領土拡大の為の対外戦争に邁進した。北アフリカではカルタゴとの第三次ポエニ戦争、ギリシア・マケドニア方面ではマケドニア戦争やミトリダテス戦争、セレウコス朝とのシリア戦争、イベリア半島での諸戦争など、戦場は拡大し、戦役は長期に及んだ。
各地に派遣されたローマ軍の中核は重装歩兵であり、その担い手はローマ市民権を持ったローマ市民たちであった。と同時に彼らはそれまでの国家の経済的基盤と言うべき中小の自作農民でもあったが、このような従軍の連続によって農業を続けることができず、土地を手放さざるを得なくなった。
これらの土地を吸収して大土地所有者となったのが元老院階層を中心とするローマの富裕層であった。クラウディウス法のため対外戦争で得た資本の商業活動への投資を禁じられていた元老院議員はその投資先としてカンパニアなどのイタリア半島中部の土地を選択していた。またエクイテスと呼ばれる元老院議員階級に次ぐ資力を持った人々は商業活動を活発に行ないつつも投資先としてはやはり伝統的かつ安全な郊外の農用地を選ぶ傾向があった。彼らは安価な労働力としてローマが征服したガリア、ゲルマニア、トラキアなどの地から大量の奴隷を輸入し、ラティフンディウムと呼ばれる大土地所有制を急速に発展させた。ラティフンディウムにおける奴隷の扱いは決して人間的なものではなく、このような奴隷制・大土地所有制が最盛期を迎える中で反乱は起きた。
ローマの家産経済は奴隷による労働力によって担われていた。しかし奴隷でも都市と郊外、また同じ郊外でも大農場や鉱山と中小自営農などの間ではその待遇に大きな違いが存在した。奴隷反乱の起こったシチリア島やカンパニアは大土地所有者が多く、奴隷達の待遇も劣悪なものであったと考えられている。
[編集] スパルタクス
スパルタクス (Spartacus) はトラキア人の剣闘士奴隷で、カンパニアのカプアにあるレントゥルス・バティアトゥス所有の剣闘士養成所に属していた。スパルタクスの出自として、
- トラキアの王子であった
- トラキアの兵士だったがローマ軍の捕虜となり送られてきた、
- ローマ軍の外人部隊の一員であったが脱走したために剣闘士にされた
などさまざまな説がある。これらの外人部隊はローマが征服した土地の人々で構成され、ローマに対する反抗心が強かった。スパルタクス自身については、寄せ集まったにすぎない反乱軍をよくまとめ、強力なローマ軍に連戦連勝したことからも、その人望や戦争指揮は卓越したものであったと考えられる。
[編集] 反乱の経過
紀元前73年春、スパルタクスは剣闘士養成所から脱走し、それに同調する者7、80人とともにナポリに程近いヴェスヴィオ山のカルデラに逃げ込んだ。その後差し向けられたローマの鎮圧部隊に圧勝した一団には、反乱を伝え聞いた周辺地域の奴隷たちが続々と加わり、またたくまに7万人に膨れあがったと言われている。反乱軍は南イタリアを略奪して回り、ローマの2個軍団を打ち破った。そして越冬地としてイタリア半島南端のトウリィに留まり、武器の製造などを行って軍の増強に努めた。この時には戦闘員だけでなく女子供や老人も反乱軍に含まれていた。
このとき反乱軍は復讐として捕虜にしたローマ兵に自分たちが課せられたと同じに、剣闘士として互いに戦わせたとされる。
紀元前72年春になると、スパルタクスは奴隷たちを故郷に帰すという考えからガリアなどローマ領の北方を目指して進軍を開始した。再び諸都市を略奪しながら進む途上でさらにローマの2個軍団を破り、またムティナ(現在のモデナ)で、ガリア・キサルピナ総督カッシウス・ロンギヌスの軍団も撃破した。ついにはローマ共和国の国境地帯であるアルプスの麓までたどり着いたが、結局アルプスを越えることはなかった。この理由としては諸説あるが、もっと略奪して回ることを望む周囲の圧力におされた、また女子供を含んだ大所帯でのアルプス越えは無理だと判断したとも言われている(当時アルプスを縦断する軍用道路は既に整備されており婦女子であろうとアルプス越えはそれほど困難ではなかったとする説もある)。ただし、反乱軍の非戦闘員たちの一部はアルプスを越えて故郷に戻ったという説もある。
スパルタクスらは再び南下し、当時ローマ最大の富豪であったマルクス・リキニウス・クラッススの指揮する2個軍団を打ち負かした。クラッススは敗走した一中隊を見せしめのために「十分の一刑」に処すことで漸く軍規を回復することが出来た有様であった。紀元前72年末、反乱軍はメッシーナ海峡のイタリア半島側の町レギウム(現在のレッジョ・ディ・カラブリア)に留まっていた。それはキリキアの海賊の助力を得てシチリア島に渡ろうとしたものであるが、何らかの理由により船が現われず失敗した。スパルタクスは以前にも奴隷の反乱が起きたこの島を拠点にしようとしていたと考えられている。
紀元前71年初頭、クラッススの8個軍団が反乱軍をカラブリアで包囲した。また元老院はイベリアのポンペイウス、黒海周辺のルキウス・リキニウス・ルクルスに本国に戻り鎮圧に加わるように伝えた。スパルタクスはなんとかブルンディシウム(現在のブリンディジ)へ逃れようとして、この包囲網の突破を試みたが、ルカニアでクラッススの軍に迎撃され、一連の戦闘においてスパルタクスは戦死した。この戦いで生き残った反乱軍の者たちは北へ逃れたが、すでに帰国していたポンペイウスの軍によって壊滅させられた。鎮圧にてこずったクラッススに対して、最終的勝利をものにしたポンペイウスは英雄として扱われ、その後の両者にとって遺恨となった。
反乱軍に加わったおよそ6000人の奴隷が捕虜となり、カプアからローマに向かうアッピア街道沿いに生きながら十字架に磔にされた(この刑罰は同時のローマの非市民に対する極刑に値する。イエス・キリストも同じ刑を受けている)。クラッススは決して彼らの遺骸を片付けてはならないと命じたため、この道を通る者はその後何年にも渡ってその有様を見なければならなかった。また戦死者たちの死骸を調べたが、スパルタクスと判別されるものは見つからなかった。スパルタクスの反乱は潰えたが、この反乱以降奴隷の待遇は向上したといわれる。
紀元前60年、カエサル、ポンペイウス、クラッススによる三頭政治が始まり、ローマは一応の政治的安定を得ることができた。