チャガタイ・ハン国
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チャガタイ・ハン国(チャガタイ・ハンこく、英語:Chagatai Khanate)は、モンゴル帝国を構成した遊牧民の政治的集団(ウルス)のひとつで、14世紀頃に中央アジアを支配した遊牧国家である。チンギス・ハーンの次男チャガタイを始祖とするチャガタイ・ウルスから発展した。チャガタイ家のウルスが実質的にチャガタイ・ハン国とみなせるほどの統一された政権を打ち立てるのは他の諸ウルスと比べると遅く、14世紀初頭にチャガタイの4代後の子孫であるドゥアが、オゴデイ家のカイドゥにより中央アジアに樹立された政権の支配圏を奪取して、ユーラシアの東西に広がる全モンゴル帝国のうち、中央アジアの領域を制覇して以降とみなされる。
この政権は、かつてそう言われていたようにモンゴル帝国が分裂、独立して成立した国というよりも、帝国全体の盟主である大ハーン(カアン)の宗主権を戴く政権という性格を有していた。そのため、専門の研究者はチャガタイ・ウルスという呼称をこの政権の発祥から分裂までの全時代を通じて用いることが多い。
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[編集] チャガタイ・ウルスの形成
モンゴル帝国の始祖チンギス・ハーンは、1206年にモンゴル高原を統一してモンゴル帝国を建国した後、長男のジョチ、次男のチャガタイ、三男のオゴデイの3子にそれぞれ4個づつの千人隊(千戸、1000人の兵士を動員可能な遊牧民の集団)を所領(ウルス)として分与し、高原西部のアルタイ山脈付近を遊牧地に設定した。チンギス・ハーン存命中の帝国の拡大により、中央アジアがモンゴル帝国の支配下に入ると、チャガタイのウルスにはかつての西遼(カラキタイ)の遊牧民たちが遊牧地としていたイリ川渓谷を中心に天山山脈北西麓の草原が与えられた。この時点では、天山山脈の東北麓には天山ウイグル王国が健在であり、またタミル盆地やマーワラーアンナフル(トランスオクシアナ)のオアシス・都市はハーンの直轄領であったので、チャガタイのウルスにその支配権はなかった。
1226年、チンギス・ハーンが没すると王族の間で次のハーンを決める集会(クリルタイ)が開かれたが、このクリルタイでチャガタイは自分と仲の良い弟のオゴデイを後継のハーンに推したとみられる。1229年、オゴデイが即位するとチャガタイはその実質上の後見人としてハーンに次ぐ権威をもつようになり、チャガタイ一門はジュンガリアのエミル川流域を遊牧していたオゴデイの一門と並んで帝国の中枢を占めるようになった。この権勢をもとに、中央アジアにおいてチャガタイはマーワラーアンナフルからホラーサーン地方に至る地域で自身の支配力を伸張した。この地方の住民の大多数を占めるムスリム(イスラム教徒)に対してもモンゴルの法令であるヤサの諸規程を厳格に適用したため、ムスリム住民はその支配に苦しんだようである。
14世紀初頭にイルハン朝で編纂されたペルシア語の歴史書『集史』「チャガタイ・ハン紀」では、チャガタイの死後当主となったカラ・フレグ以下イェス・モンケ、カラ・フレグ妃オルクナ・ハトゥン、アルグらを一貫して「チャガタイのウルスの帝王(pādshāh-i Ūlūs-i Chaghatāy)」と呼んでおり、少なくとも14世紀初めには「チャガタイのウルス」という表現が存在していた(オルクナのみ「チャガタイのウルスの代官(ハーキム)」)。
[編集] チャガタイ死後の混乱
1241年、オゴデイが没し、その翌年にはチャガタイが没すると、重鎮を立て続けに失ったモンゴル帝国ではハーンの後継者争いを巡って内部に葛藤が起こった。チャガタイは生前にバーミヤーン攻囲戦で戦死した長男モエトゲンに代わり、モエトゲンの四男でブリの弟であったカラ・フレグを後継者としていた。
オゴデイ家とチャガタイ家はドレゲネ皇后の説得の結果、シレムンの擁立を諦め協力してオゴデイの長男でドレゲネの実子であるグユクを第3代ハーンに即位させたが、グユクと個人的に不仲なジョチ家の当主バトゥがこれに難色を示した。第2代当主カラ・フレグの協力もあって即位したはずのグユクであったが、しかしグユクは、チャガタイの嗣子たちが生存しているのに、まだ若いカラ・フレグがチャガタイ家の当主であることは不可解である、と称しカラ・フレグを当主位から廃してチャガタイの五男であったイェス・モンケをチャガタイ家当主に任命した。1248年、在位わずか2年でグユクが没すると、バトゥは、先にオゴデイ即位のとき、最大の実力者でありながら兄にハーン位を譲っていたチンギス・ハーンの四男トルイの一門と協力して政変を起こし、トルイの長男モンケを第4代ハーンに即位させた。
モンケは即位すると謀叛の疑いをかけてオゴデイ家とチャガタイ家の王族や諸将に対して大規模な粛清と追放、所領の没収を行い、チャガタイ家の第3代当主・イェス・モンケも処刑された。これによりモンケの認証を受けてカラ・フレグが再び当主に復帰するはずであったが、イリの所領へ帰還する途中病没してしまった。これらチャガタイ家、オゴデイ家の2ウルスは実質上解体し、政権としての実質は失われた。イェス・モンケの後には第2代当主カラ・フラグの嫡子であるムバーラク・シャーの母、オルクナが摂政として当主に据えられ、未亡人を指導者に迎えたチャガタイ・ウルスは本来の所領であるイリ渓谷に押し込められ、逼塞を余儀なくされた。
1259年、モンケが南宋に対する遠征の途上に没し、その弟であるクビライとアリクブケによる内紛が始まると、もうひとりの弟フレグは遠征先のイランに留まって政権(イルハン朝)を樹立し、ジョチ・ウルスの当主ベルケとアゼルバイジャンおよびホラズムの支配権を巡って対立した。このような帝国全体の混乱の隙を突いて、衰退したチャガタイ家やオゴデイ家に再起の機会が訪れた。
[編集] 再興と挫折
中国を抑えるクビライに対してモンゴル高原を抑えるのみで物資に乏しいアリクブケは、チャガタイ家を通じて中央アジアを勢力下に置き本拠地カラコルムに食料を送らせようと企図し、側近にいたチャガタイ家傍系の王族アルグをイリ渓谷に送り込んだ。ところが、アルグはオルクナから実権を奪って第5代当主の座を確保、イェス・モンケ処刑以来失われていたパミール高原以西のオアシスに対する支配圏を回復すると、アリクブケを裏切ってクビライに通じた。アルグ離反の結果、兵站を失ったアリクブケはクビライに対して降伏を余儀なくされ、クビライのもとにモンゴル帝国は平和を取り戻した。
クビライはアルグに加えてフレグ、ベルケを招いて統一クリルタイを行おうとしたが、アルグ・フレグ・ベルケの3人は1266年に相次いで没した。これによりムバーラク・シャーがチャガタイ家第6代当主に即位するが、チャガタイ・ウルスを自身の忠実な同盟者に仕立てて中央アジアを抑えようと企図したクビライは、ムバーラク・シャーの従兄で、自身に近侍していたチャガタイ家の王族バラクをイリ渓谷に送り込み、ムバーラク・シャーに代えてチャガタイ家第7代当主とした。
ところがバラクはクビライの傀儡となることを嫌い、チャガタイ・ウルスを掌握するとハーンに対して反抗し、マーワラーアンナフルの大ハーン直轄領に派兵してその支配権を実力で奪取しようと活動を開始した。また同じ頃、オゴデイ家の生き残りであるカイドゥがクビライに反旗を翻してジュンガリアからアルタイ山脈方面で勢力を拡大していた。両者はマーワラーアンナフルの統治権を巡って激しく争うが、1269年、タラス川の河畔でジョチ家の代表者とともに会盟して妥協を結び、マーワラーアンナフルを分割した。なお、旧来はタラスの会盟でバラクはカイドゥを大ハーンに推したとされていたが、現在では事実とみなされていない。
オゴデイ家およびジョチ家と同盟したバラクは、イルハン朝の支配するホラーサーンの征服を目指してアム川を渡ったが、イルハン朝の第2代君主アバカに大敗を喫した。この大敗によりバラクの威信は失墜し、カイドゥとの抗争が再燃した。1271年、バラクはカイドゥとの会見を目前に不審な急死を遂げた。カイドゥによる暗殺と言われる。
バラクの死後、ニグベイが即位したがカイドゥと対立して殺害され、チャガタイ・ウルスでは王族同士がカイドゥなど外部の力を借りて内紛を始めた。ウルス内部は混乱をきわめ、1275年にはウルスのあるイリ渓谷の中心都市アルマリクがクビライの子ノムガン率いる軍によって一時的に占領されるほどであった。
この内紛の末にチャガタイ・ウルスは分裂し、アルグの遺児チュベイらはクビライのもとに逃れ、甘粛の西部に所領を得て東方におけるチャガタイ・ウルスの一派を構成した。一方、チャタガイ・ウルスの本領イリ渓谷に残った王族のひとりであるバラクの遺児ドゥアは、はじめカイドゥと対立していたがのちに服属し、1282年にカイドゥによってチャガタイ家の当主に任命された。
カイドゥの傀儡としてドゥアが即位したことにより、チャガタイ・ウルスはオゴデイ家のカイドゥの勢力内に完全に取り込まれ、「カイドゥ王国」の一部となった。
[編集] チャガタイ・ハン国の成立
ドゥアはカイドゥの存命中その忠実な同盟者として振る舞い、アルタイ山脈方面でクビライ家の元と、甘粛方面で同じチャガタイ一族のチュベイと戦った。しかし1301年に戦傷がもとでカイドゥ死亡すると、ドゥアはカイドゥの後継者問題に介入して勢力回復をはかった。
カイドゥの後継者には先にオロスが指名されていたが、ドゥアはカイドゥの長男にあたるチャパルを支持し、最終的にチャパルを即位させた。これによってオロスとチャパルの間で対立が起こりオゴデイ家が混乱すると、ドゥアはチャパルを見捨て、アルタイ山脈を越えてジュンガリアに侵入してきた元軍と協力してオゴデイ家の勢力を滅ぼした。これによりドゥアはかつてのカイドゥ王国のうちアルタイ山脈以西の遊牧民とオアシスを支配下に組み入れることに成功し、チャガタイ家によるモンゴル帝国の地方政権を樹立した。狭義のチャガタイ・ウルス、「チャガタイ・ハン国」の成立である。
ドゥアはまた、ヒンドゥークシュ方面に進出してチャガタイ・ハン国の最大版図を実現したが、1306年末から翌年にかけてに病没した。ドゥアの死後、後を継いだのはその子のコンチェクであったがわずか2年後に没し、かわって即位したのはチャガタイ家の傍系から出たタリクであった。
チャガタイ・ハン国の実質的な建国者であったドゥア一門とその部将たちはこれに対して危機感を抱き、ドゥアの子ケベクを指導者として反乱を起こし、タリクを倒してこれを殺した。続いてドゥア一門の主力を率いてヒンドゥークシュ・アフガニスタン方面に駐留していた兄エセン・ブカがイリ渓谷に帰国すると、ケベクはエセン・ブカにハン位を譲った。エセン・ブカは弟ケベクの功績を認めて、彼にハン国の経済的中心であるマーワラーアンナフルとフェルガナ盆地の支配権を委ねたので、チャガタイ・ハン国は建国後わずか数年にして政治的な分権化に進み始めた。
[編集] 東西分裂
1318年頃にはケベクがハンに即位するが、彼は即以前の本拠地であったカシュカダリヤのカルシに宮殿を築いて居座った。このころより、遊牧民の都市定住化、それにともなうイスラム化、および言語的なテュルク化が進んだが、それが遊牧国家特有の、部族集団間の政治的対立を深刻なものにしていったと考えられる。
チャガタイ・ウルスは始祖チャガタイの時代こそムスリムの宗教的慣習を遊牧民の法令で規制して抑圧したが、チャガタイの曾孫にあたるムバーラク・シャーがその名からもムスリムであることが明らかなように、チャガタイの孫、カラ・フレグやオルクナ以降の世代では、中央アジアの住民の大多数を占めるムスリムに対して融和的であった。ムバーラク・シャーより後は、ケベクまでは仏教徒であったとされるが、1324年に即位した弟のタルマシリンはイスラムに改宗し、足繁くモスクに通う敬虔なムスリムとなっていた。
このころより、マーワラーアンナフルのオアシスに定着し、都市文明に慣れ親しんでいた西チャガタイ・ハン国の人々は、ハン国の始祖の名を取って自らを「チャガタイ」と自称するようになった。チャガタイ人たちはイスラム化・テュルク化が進み、特に言語的には完全にテュルク化していたので、歴史家に「チャガタイ・トルコ人」(トルコ人はテュルクと同義)と呼ばれることもある。
これに対して、東のセミレチエやイリ渓谷など天山山脈北麓の草原地帯で純粋な遊牧生活を保っていた諸部族は、自身を「モグール(モンゴル)」と自称してモンゴル帝国以来の遊牧民としての矜持を誇り続けた。モグールたちはモンゴルの伝統を失ったチャガタイ人たちを「カラウナス(混血児)」と呼び、チャガタイ人たちは都市文明を理解しないモグールを粗野な人々と蔑んで「ジェテ(夜盗)」と呼んだ。
このような分裂傾向も加わって、タルマシリンより後のチャガタイ・ハン国は、ドゥアの子孫の間でハン位が頻繁に交代される混乱に陥り、20年ばかりの間に何人ものハンが改廃された。1340年頃より後には、チャガタイ・ハン国はおおよそパミール高原を境界として政治的に完全に東西に分裂していた。
分裂後のチャガタイ・ハン国のうち、イリ渓谷およびセミレチエの草原を中心に東トルキスタンを支配した東部のモグールたちの政権を東チャガタイ・ハン国、マーワラーアンナフルを中心に西トルキスタンの南部を支配した西部のチャガタイ・トルコ人たちの政権を西チャガタイ・ハン国という。
[編集] 東西チャガタイ・ハン国の再編と消滅
15世紀半ばになると、西チャガタイ・ハン国ではチャガタイ家のハンが完全に実権を失い、アミールの称号を持つ有力な部族の指導者たちが各オアシスに割拠してハン国の覇権を争うようになった。
一方、東チャガタイ・ハン国では一時的にハンが断絶したが、1347年頃にドゥアの息子エミル・ホージャの落胤であるというトゥグルク・ティムールという少年が発見され、東チャガタイ・ハン国のハンに即位した。トゥグルク・ティムールは天山山脈の南に広がるタリム盆地の諸オアシスを制圧し東トルキスタンを再統一すると、1360年にはシル川を渡河してマーワラーアンナフルに侵入、西チャガタイ・ハン国の諸部族を服属させてチャガタイ・ハン国を一時的に再統一した。トゥグルク・ティムールの死後、マーワラーアンナフルの諸部族は再びハンから離反したため統一は失われたが、彼が再編して以降の東チャガタイ・ハン国は史料上「モグールのウルス」と呼ばれるようになり、モグールの支配したイリ渓谷周辺は「モグーリスタン」と呼ばれたのにちなんで歴史家によって「モグーリスタン・ハン国」と呼ばれている。
トゥグルク・ティムールの死後再びアミール同士の抗争が再燃した西チャガタイ・ハン国では、トゥグルク・ティムールによってバルラス部のアミールに任命されていたティムールが勢力を伸ばし、1370年にマーワラーアンナフルを統一した。ティムールの開いたティムール朝は、君主がチンギス・ハーンの血を引いていないという弱点があったので、チンギス・ハーンの末裔の王子を傀儡のハンとして擁立していたが、もはやそのハンの出自はチャガタイ家であることにはこだわられず、やがて傀儡のハンも立てられなくなった。
モンゴル帝国の再統合を目指して勢力を拡大したティムールは旧主のモグーリスタン・ハン国にも出兵し、一時はこれを服属させたこともあるが、モグーリスタン・ハン家はこれ以降も存続した。しかし15世紀の前半になるとジョチ・ウルスの流れを汲むウズベク、カザフという二大遊牧集団に圧迫され、モグーリスタンの王族や諸部族は次第に南遷してタリム盆地のオアシスに移り、かつてのチャガタイ人と同様に定住化・テュルク化していった。
16世紀には、チャガタイの末裔の王族たちはヤルカンド・ハン国を形成してタリム盆地西部のオアシスの支配者になっていたが、政治の実権は次第にイスラム神秘主義教団のホージャたちに奪われていった。1680年、タミル盆地は全域がチベット仏教徒のモンゴル系遊牧民ジュンガルのハン、ガルダンの手に落ち、最後のチャガタイ家系のハンによる政権は消滅した。