グユク
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グユク(Güyük, 1206年 - 1248年 在位1246年 - 1248年)はモンゴル帝国の第三代大ハーン。漢字表記は貴由で、ペルシア語表記では كيك خان kuyuk khān ないし گيوك خان Guyūk khān など。 元によって贈られた廟号は定宗。オゴデイの長子で第六皇后ドレゲネとの間に生まれた長男。
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[編集] 生涯
1233年、蒲鮮万奴を討ち、これを捕らえる功績を挙げた。1236年からはバトゥを総司令官としたヨーロッパ遠征軍に従軍して活躍したが、もともと酒豪であったうえ、他の兄弟や従兄弟のバトゥと仲が悪く、常に対立していたという。このようなグユクの素行を知った父・オゴデイは自身が一族の和を重んじる性格であったことから、一族最有力者のバトゥと仲が悪いグユクは自分の後継者として不適格と見なし、候補から除外したという。さらにバトゥとヨーロッパ遠征途中のルーシ征服後の宴席で決定的に対立してしまい、遂に父の激怒を買って本国への召還を命じられた。しかし父・オゴデイは1241年、グユクが本国に帰還する途上で病没してしまう。
これにより、本国に最も近い場所にいたグユクは幸運にもハーンを望むに一番、優位な立場となった。オゴデイの死後は甥のモンケが継ぐはずであったが、モンケはヨーロッパ遠征軍に従軍していたために本国から遠い立場にあり、また生母・ドレゲネの政治工作もあって、バトゥの強硬な反対こそあったもののモンケを抑えて、1246年8月26日、祖父チンギス即位所縁の地であるココ・ナウルにおいて開催されたクリルタイによって第3代ハーンに即位することとなった。即位後の同年10月、母のドレゲネが病死すると自ら親政を開始する。オゴデイの死から5年が経過していた。
まず、母の寵愛を得て専権を振るっていたアブドゥッラフマーンを処刑し、父時代の功臣であるヤラワチ、チンカイ、そして自身の即位を支持するチャガタイ家のイェス・モンケ(チャガタイの五男)を当主カラ・フレグを廃してチャガタイ家の第3代当主に任命するなど重用した。軍事面では南宋、イラン諸地方、高麗に兵を送り、引き続き勢力の拡大に努めた。そして自らも最大の政敵であるバトゥ討伐のため、父の遺領(ウルス)であるバルハシ湖近傍のエミル地方への巡幸を名目として一軍を率いて西方へ出発した。しかしグユクは1248年4月、遠征途上のビシュバリク方面で急死した。この死には、かねてからの過度の酒色で健康を害したための病死と『集史』などでは言われているが、トルイ家のソルコクタニ・ベキが、この巡幸はグユクによるバトゥへの討伐軍ではないかと危惧し、あらかじめバトゥに警戒するよう知らせていたことも記録されており、犬猿の仲であるバトゥによる暗殺の可能性を示唆する説もある。
[編集] グユクの即位と生母ドレゲネ皇后
『世界征服者史』や『集史』などによれば、グユクの即位には、ドレゲネの工作によって、ソルコクタニ・ベキを筆頭としてトルイ家からはモンケなどその息子たち、東方諸王家の統括者テムゲ・オッチギンとその一族、チャガタイ家からは第2代当主となったカラ・フレグ、イェス・モンケ、ブリ、バイダル、イェスン・トアらモンゴル王族の大部分を参加させることに成功した。さらに帝国内部からは旧金朝領である華北に派遣されていノヤンや官僚たちと在地漢人勢力の代表者たち、マーワラーアンナフル総督のマスウード・ベク、イラン・ホラーサーン総督アルグン・アカとそれに随行したきたカフカス南部境域、アゼルバイジャン地方からイラク、ホラーサーンに至るまでのモンゴル支配地域とその周辺の有力勢力や王族たち、その使節が参加している。ルーム・セルジューク朝のスルタンカイカーウース2世の弟クルチ・アルスラーン4世、ウラジーミル大公国のヤロスラフ2世、グルジア王国のダヴィド兄弟、有名なサラーフッディーンの曾孫でアレッポとダマスクスを支配していたアイユーブ朝の君主ナースィル・サラーフッディーン・ユースフの弟君、モースルの君主バドルッディーン・ルウルウの使者がおり、またヨーロッパからはローマ教皇インケンティウス4世の使節として派遣されたプラノ・カルピニのジョヴァンニ修道士、ケルマーン地方のカラキタイ朝の王族クトブッディーン、ケルマーン地方のアタベク政権であるサルグル朝の君主アブー・バクル・ブン・サアドの使節が参加していた。その他アッバース朝の大カーディー・ファフルッディーン、アラムートのニザール派教主アラーウッディーン・ムハンマド3世の使者がそれぞれ確認されている。
ジョチ・ウルスも結局バトゥは体調不良を口実に欠席したが、モンゴル本土に派遣していた、異母兄のオルダを始めシバン、ベルケ、ベルケチェル、タングト、トカ・テムルといった自らの兄弟であるジョチ家の主要王族たちとそれに随行する将軍(ノヤン)たちを出席させている。総じてグユク推戴のクリルタイは、モンゴル帝国最大の勢力を誇っていたバトゥ自身の参加は欠いていたものの、ドレゲネの工作によって帝国各地や周辺の主だった勢力を参加させることが出来たため、モンゴル皇帝選出という大業に見合った大規模なものにすることに成功したといえる。
[編集] プラノ・カルピニが伝えたグユクの勅書
余談ながら、この時たまたまローマ教皇インケンティウス4世の使節として派遣されたプラノ・カルピニのジョヴァンニ修道士がこのグユク選出のクリルタイに参加し、その様子を教皇庁に提出した報告書『モンゴル人の歴史』に載せている。彼がグユクに謁見したのち手渡されたペルシア語による勅書がバチカン美術館に現存している。これは書面の末尾に1246年11月11日(ヒジュラ暦644年ジュマーダー=ル=アーヒラ月末日)という紀年が書かれており、発令日時が明確である物としては、現存最古に属すウイグル文字モンゴル語によるモンゴル皇帝の玉璽の銘文が捺された正式な勅書である。モンゴル帝国が発令した実物の命令文書としては碑文資料を除くと現存する最古の文書資料でもある。さらに文中ではグユク自身と祖父のチンギス・ハンをハン( خان Khān )、父のオゴデイを「カアン」( قاان Qā'ān )とそれぞれ呼んでおり、オゴデイのみを「カアン」と呼ぶ特別な称号が、グユクの即位直後からすでに使われていたことが分る貴重な証拠を残している。さらにカルピニの報告書とこの時カラコルムで作成された勅書のラテン語翻訳文が残っている事などにより、勅書の来歴や作成経緯についても詳細な記録が残る希有な資料であり、これらとともにモンゴル帝国の政治史、制度史研究でも第一級の史料となっている。
グユクは、派手な放蕩ぶりから一般的には無能な人物と言われているが、即位からわずか2年足らずで大きく帝国の勢力を拡大し、父の政策を踏襲して内政を整えているところから見ても、有能な政治家とは言えるであろう。しかしバトゥやモンケなどの一族の和を乱してモンゴル帝国分裂の遠因を作ってしまったことは、人の上に立つ指導者としては失格者だと思われる。
[編集] 外部リンク
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