ジョチ
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ジョチ(Jöči, ? - 1225年)は、モンゴル帝国初期の王族で、ジョチ・ウルスの始祖。ジュチともカナ表記される。チンギス・ハーンの長男。漢字表記は朮赤。アラビア語・ペルシア語資料の表記で13世紀前半には توشى tūshīなどと書かれていたが、14世紀初頭に編纂されたの『集史』以降ではテュルク語・モンゴル語の原音に近い表記である جوچى خان jūchī khān と綴られている。
[編集] 生涯
ジョチはチンギス・ハーンの第一夫人ボルテを母とする嫡出の長男で、同母弟にチャガタイ、オゴデイ、トルイの3人がいる。ただし、当時のモンゴルには、近隣国のように嫡長子を後継者とする制度は存在しなかったので、ジョチは長男であることによって他の兄弟と比べて特に優遇されていたりはしない。ただし、末弟で最有力後継者候補であったトルイとともにケレイト部の王オン・ハンの姪を娶るなど、長男として有力な立場にあった可能性は指摘できる。
若い頃から父に従ってモンゴル高原の統一に至る戦いに参加し、特に西方の強国ナイマンとの戦いで活躍した。1206年にチンギス・ハーンが高原を統一すると、高原の西に位置するアルタイ山脈の北部からイルティシュ川の上流域に4個の千人隊を所領(ウルス)として与えられ、帝国の最も北西に位置することからオイラト、キルギスなど高原北西の森林地帯に住む諸部族の平定を任せられた。オイラトが帰順した際には、その一首長に娘を娶わせている。
1211年より、チンギスが金への遠征を開始したときは、同じく帝国の西部にウルスを持つ二人の弟チャガタイ、オゴデイとともに、全体の右翼軍(西部軍)を率いる将領として参加、山西地方の席捲して諸城を陥落させた。
1219年から始まる西方遠征でも右翼の指揮官として中央アジア北部を進み、戦役の発端となった町オトラルを攻略した後、スィル川沿いに下ってスィグナク、ジャンド、ヤンギカントを征服した。スィグナクでは、ジョチが攻撃に先立って降伏を要求するために送った使者を住民が惨殺したため、モンゴル軍は攻略後に町を徹底的に破壊、住民を皆殺しにしたという。
その後、中央アジアの中枢トランスオクシアナからアム川沿いに下ってホラズム・シャー朝の本拠地ホラズムの主邑ウルゲンチを攻撃したが、彼はともに攻撃を担当したすぐ下の弟チャガタイと不和だったために攻略に手間取ることがあった。このため兄弟は父チンギスの不興を買ったが、二人の兄いずれとも仲の良い弟のオゴデイが兄の間にたって指揮をとり、事なきを得た。
ジョチの攻城は、従来のモンゴルが一般に行っていた城内乱入に次ぐ略奪と破壊を嫌ったためか、相手が降伏するのを待つという戦法を取ることが多く、進軍速度を緩めてしまったという評価が強い。そのため、従来どおりの戦法を取るチャガタイとは、もともとの不和とあいまって、ウルゲンチのような事態を引き起こしたと見られる。実際にウルゲンチにおいても彼は、降伏交渉を行っている。
諸史料によれば、チンギス・ハーンはこの頃、4人の嫡子のうちから後継者を選び、温和な3男のオゴデイが後継者に指名された。このとき、チンギス・ハーンは実際に諸子を集めて自分の後継者に誰がふさわしいか意見させたが、その場でジョチとチャガタイが口論になり、二人がお互いをハーンにふさわしくないと言い合ったので、次の弟で人望のあるオゴデイが立てられたという。
中央アジア遠征の後、ジョチは西方に広がったモンゴル帝国領のうち、北部の良質な草原を遊牧地として与えられ、ジョチのウルスは本領のイルティシュ川上流域からバルハシ湖の北からアラル海の方面に至る草原地帯(カザフ草原、現在のカザフスタン)に広がった。さらに、ジョチはチンギス・ハーンによってアラル海の北からカスピ海の北に広がる草原地帯の諸族の征服を委ねられ、チンギスがモンゴル高原に帰還した後もカザフ草原に残って北西方への拡大を担当することになった。
しかし、この間にジョチは病を発し、軍を進めることができなくなった。しかし、この間の事情がモンゴル高原にはジョチが狩猟に興じて軍事をおろそかにしているとの噂になって伝わったので、激怒したチンギスはジョチに対して召還命令を下したが、ジョチは病のために帰還することができず、1225年頃に父に先立って病没してしまった。一方、チンギスはジョチが召還の命令に従わないのでいよいよ討伐の軍を送ろうとまでしていたが、そこに病没の報が伝わり、大いに悲しみ落胆したと伝えられている。なお、チンギスが派兵を送ろうとまでした背景には、謀反の兆し有という風評があったためと一般的には言われる。
[編集] 家族と子孫
ジョチには、当時の遊牧民の王侯たち一般と同じく、数多くの夫人と子があった。夫人はハトゥン、フジンなどの称号をもつ正妃の名が複数知られているが、夫人の間の序列はよくわかっていない。また、子息は40人以上いたと言われているが、子孫がジョチ・ウルスの王侯貴族として残り、『集史』など後世の系譜書に名前が記されている者は14名いる。
以下に代表的な者を挙げる。
- 正妃
- 子息
- オルダ
- ソルカク・ハトゥンの子。イルティシュ川流域に残り、ジョチ・ウルス左翼(東部)を支配した。
- バトゥ
- オキ・フジンの子。ジョチ・ウルスの右翼を支配し、ウルス全体を統括する君主(いわゆるキプチャク・ハン)になった。
- ベルケ
- スルターン・ハトゥン(エミン部族)の子。バトゥの死後、傍系からジョチ・ウルスの第4代君主となった。
- ベルケチェル
- スルターン・ハトゥンの子。ベルケの同母弟。
- シバン
- タングト
- ボアル
- チラウカン
- シンクル
- チンバイ
- ボラ(ムハンマド)
- ウドゥル
- トカ・テムル
- 子孫はトクタミシュら14世紀後半以降にジョチ・ウルスのハン位を争う有力者たちを輩出し、アストラハン・ハン国、カザン・ハン国、クリミア・ハン国など複数の政権の始祖になった。
- セングム
- オルダ
[編集] ジョチの出生をめぐる問題
ジョチという名は、中世モンゴル語で「客」「旅人」を意味するが、この名前は出生の事情によっている。
ペルシア語の歴史書『集史』によると、ジョチが母ボルテの腹の中にいたとき、まだ弱小勢力だったチンギスの幕営が、モンゴル部と敵対するメルキト部によって襲撃された事件があった。身重の母ボルテはメルキトによって拉致されたが、チンギスの同盟者であるケレイトのトオリル・ハンによって保護され、ケレイトの幕営地で男子を生んだので、「旅客」を意味するジョチという名を与えられたのだという。
一方、モンゴル語で記された『元朝秘史』では話はより劇的となる。すなわち、
- もともとチンギスの母ホエルンはメルキト部の者と結婚していたが、モンゴル部のイェスゲイによって略奪されてその妻となり、テムジン(のちのチンギス・ハーン)を生んだ。のちにイェスゲイの遺児テムジンが結婚したことを知ったメルキトは、ホエルン略奪の復讐としてテムジンを襲撃してボルテを略奪し、ホエルンの元夫の弟にボルテを結婚させた。一方、逃げ延びたテムジンはトオリル・ハンとジャムカの助けを得てメルキトを討ち、ボルテを取り戻す。しかし、そのときボルテは妊娠して出産間近であり、まもなくジョチが生まれた。このため、ジョチはメルキトの子ではないかと疑われ、のちにジョチのすぐ下の弟チャタガイは、父の面前でジョチをメルキトの子と罵ったが、チンギスはあくまでジョチを長男として扱った。
というもので、現在では『集史』の伝える話よりも広く知られている。明らかな編纂意図を持って記録や口承をまとめ編集された散文の歴史書である『集史』と比較すると、韻文を多用した『元朝秘史』は英雄叙事詩的な歴史物語の性格が強く、どの程度史実を伝えたものかは定かではない。ただし、ジョチがチャガタイと不和だったのは事実であり、『集史』の伝えるような出生の事情を問題視される向きがあったことは事実のようである。
そもそも『元朝秘史』の物語については、そもそもモンゴルと代々婚姻を重ねる関係にあるコンギラトの出身であるホエルンがもともとメルキト部の者と結婚していたという話が信憑性に乏しいため、略奪叙事詩としての筋を盛り上げるために付け加えられた話であると主張する学者もいる。
『元朝秘史』の物語の史実性の是非はともかく、この興味深い物語が多くの人の関心を引き寄せる魅力を持っていることに違いはない。日本の作家井上靖は小説『蒼き狼』で晩年の親子の確執と絡めて、ともに略奪された母から生まれ出自に疑問を抱きつづけるチンギスとジョチの複雑な親子の関係を見事に描き出している。なお、井上靖は、「父は不明」を基本スタンスとしているが、陳舜臣は「チンギスハーンの一族」において集史とほぼ同様(つまり、すでに妊娠していたとする説)の主張を行っており、チンギスは自身の子であると認知、ジョチと不和であったチャガタイは、周囲がうわさしていた「メルキトの子」であるという風評を、互いが幼少時の時期に罵ったという亀裂が修復されずに成長し、そのまま成長するにいたって互いに引っ込みが付かなくなったのが決定的な亀裂の原因である、という描き方をしている。 また、森村誠一は「チンギスの子ではない」としているなど、歴史小説における彼の扱いはさまざまである。
カテゴリ: モンゴル帝国 | ジョチ・ウルスの君主 | 1225年没