チャールズ・オークリー
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チャールズ・オークリー(Charles Oakley, 1963年12月18日オハイオ州クリーブランド出身 - )は、1985年から2004年までアメリカのバスケットボール・リーグNBAで活躍した元バスケットボール選手。身長206cm。ポジションはパワーフォワード。Virginia Union大学出身。愛称は「Oak」(カシの木)。
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[編集] 経歴
1985年のNBAドラフト全体9位でクリーブランド・キャバリアーズに指名されるも早々に交渉権がシカゴ・ブルズへトレードされる。マイケル・ジョーダンのいたブルズではルーキーイヤーから守備、リバウンドでチームに大きく貢献。85-86年シーズンはオールルーキーチーム選出、86-87、87-88シーズンではリバウンド獲得総数でリーグトップと活躍した。
1988年、ブルズはドラフトでパワーフォワードのホーレス・グラントを獲得。更に7フィートのビッグマンのビル・カートライトを求めてニューヨーク・ニックスとトレードを行う。これによりオークリーはニックスに移籍、以降10シーズンを過ごすこととなる。ニックスではパトリック・ユーイングと共同キャプテンを務め、プレーでもインサイドでユーイングの負担を減らした。そのハードワークはニューヨークのファンの心を掴み、彼は「ニックスのハート&ソウル」といわれる様になる。また、チームメートの信頼も厚く、ユーイングは「彼(オークリー)がチームを出たら、自分もニューヨークを去る」と公言していたほどである。バッド・ボーイズ2(デトロイトのバッドボーイズの再来)とも呼ばれ恐れられていた90年代のニックスの要として、プレイオフで黄金期のブルズを苦しめ、1994年にはNBAファイナルにも進出している。
1998年、ニックスのチームの若返りが図られてオークレーはトロント・ラプターズへマーカス・キャンビーとのトレードで移籍した。加えてラトレル・スプリーウェルとジョン・スタークスの交換トレードも行われたため、ニューヨークでは大きな論争となった。現在でもファンの間では「オークリー放出で(今後の)ニックスの優勝はなくなった」、昨今の低迷についても「オークリーのトレードが全ての始まりだ」とも言われている。当のオークリーはヴィンス・カーター、トレイシー・マグレディという若きスター選手がいるラプターズで、頼れるベテランとして貢献。その後はブルズ、ジョーダンのいるワシントン・ウィザーズ、ユーイングがアシスタント・コーチを務めていたヒューストン・ロケッツと渡り歩き、2003-04シーズンを最後に引退した。
[編集] プレイスタイル
チームの地味な役割、汚れ役を一手に引き受けるブルーワーカーの代表的な選手。その献身的なプレーは数字に表れないながらも評価が高かった。一方でダーティなプレーも辞さないスタイルから、相手選手の間ではビル・レインビアに次いで嫌われてもいた。キャリア後期はミドルレンジのジャンプシュートが上達し、ハイポストでプレイする機会が多くなった。
[編集] キャリア・ハイライト
- オールルーキーチーム選出(86年)
- シーズン最多トータルリバウンド(86-87、87-88シーズン)
- オールスター戦出場(94年)
- オールディフェンシブ1stチーム選出(94年)
- オールディフェンシブ2ndチーム選出(98年)
- 1988年4月22日のクリーブランド戦で1試合35リバウンドを記録。以降NBAでこれを上回る数字は記録されていない。
[編集] 雑学
- 選手時代からラジオのDJを務めており、いわゆる冠番組を持っている。
- ニューヨークのカーウォッシュ・チェーン「Oakley's Car Wash」のオーナー。
- 「NBA選手の6割がマリファナをヤっている」という発言が騒ぎになったことがある。
- マイケル・ジョーダンとは仲が良く、彼がアイザイア・トーマスたちによってNBAオールスターゲームで仲間外れにされた際に、トーマスらを公然と批判した。
- パット・ライリーがニックスのヘッド・コーチを辞任してマイアミ・ヒートのヘッド・コーチに就任してから再会した時、ライリーをシカトした。