チャールズ・ケーディス
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チャールズ・ルイス・ケーディス (Charles Louis Kades, 1906年3月12日-1996年6月18日)はアメリカの官僚・軍人・弁護士。連合国総司令部における日本国憲法草案作成の中心人物。
[編集] 生涯
ニューヨーク州のユダヤ人の家庭に生まれる。1927年、コーネル大学卒業。1930年、ハーバード大学ロースクール卒業後、弁護士としてニューヨーク市のホーキンズ・ギラフィールド&ロングフェロウ法律事務所に勤務。1933年、ワシントンに移り、財務省主席顧問補佐官に就任。ルーズベルト大統領のニューディール政策に従事、若手官僚として活躍。1944年6月、歩兵将校として米第7軍の第1空挺機動部隊に属しフランスに赴任、アルプス地方やラインラントの作戦に参加。南フランスでは落下傘部隊として従軍、中佐となる。のちワシントンに戻り、統合参謀本部に勤務。日本降伏時は陸軍省民政部に勤務していた。
1945年(昭和20年)8月、陸軍大佐として東京に進駐、GHQの民政局(GS)次長をつとめ、民政局長ホイットニー准将の下で、日本国憲法草案作成の中心人物として活躍、日本憲法の基本原則である「国民主権(象徴天皇制)」や「国際平和主義(戦争放棄)」の条項を挿入する等、日本の「非軍事化・民主化」政策に主導的な役割を発揮し、戦後日本の民主化に大きな役割を果たす。1948年(昭和23年)12月8日、マッカーサーの命令を受け単独で離日しワシントンに赴き、本国政府による日本を「反共の砦」とする占領政策の変更に歯止めをかける努力をするが、説得は失敗、1949年(昭和24年)5月3日、民政局次長を辞任した。その後、アメリカで弁護士に復帰する。心不全のためマサチューセッツ州ヒースの自宅近くの病院で没。
なお、昭電疑獄にかかわった容疑と、元子爵夫人鳥尾鶴代との恋愛事件によって失脚し帰国したとのスキャンダルがあるが、それは、日本の民主化をさらに推し進めようとしていたGSの中心人物であったケーディスを追い落とすためのG2の策略であり、事実と異なる[要出典]。だが、昭電疑獄後に吉田茂の後継首相就任を阻止しようとした「山崎首班工作」の画策などによってマッカーサーらの不興を買った可能性は十分に考えられる[要出典]。
[編集] ケーディスと憲法
日本国憲法草案を作るためのGHQ民政局・25名による委員会の長として、ケーディスは各所で主導権を発揮した。
- 委員会が起草するにあたって、マッカーサーが渡したメモには、「自国の安全を確保するためであっても戦争を放棄する」とあったが、それを、「国の自衛権までも奪うのは、現実離れしている。個人に人権があるように、どんな国でも自国を守る権利があるべき」と考え、それを削除した。さらに憲法原案手交後に、芦田均(衆議院憲法改正特別委員長)が、第9条第1項に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の一文を、第2項に「前項の目的を達するため」を加えることで、自衛権の保持を確保しようとしたときに、ケーディスは芦田の意図を察した上で、その提案に自分の責任でOKを出している。
- 当初案には、土地や天然資源の最終的権原は「国民代表としての国に属する」といった急進的・社会主義的な条項があったが、ケーディスはその国の権原が「土地及び資源に対する私的所有」の否定につながる、という理由で反対した。
- 他のメンバーが、占領解除後に日本政府が憲法に定める基本的人権の条項を後退させてしまうことを恐れ、「権利章典(人権条項)」の改正ができないようにしようという案を出すと、ケーディスは、その考えは「暗黙のうちに、この憲法の無謬性を前提している。1つの世代が、他の世代に対して、自らの問題を決する権利の否定を強要することになる。権利章典の変更は、革命によってしか成就されないことになる」として、反対した。
- 当初案では「日本国民には、まだ民主主義の運用ができない」だろうから10年間は改正を許さず、それ以後の改正は国会の3分の2、国民の4分の3の承認を必要とするように条文が書かれていた。ケーディスは「それでは後世の国民の自由意志を奪う」「憲法を保護するためにこのような制限をすることはよくない」とこれに強く反対し、激論の末に撤回させている。
- 前文か最高法規の条項に、この憲法は主権の基礎を「国民の意思」だけではなく、「普遍的な道徳」の諸原理に置いていることを強調し、「物理的な力」だけでなく「道徳的高潔さが権威の源泉である」ことを謳うべきだ、という主張に対して、ケーディスは強い調子で「そういうユニヴァーサル・チャーチ的なものを一国の憲法に入れるべきでない」、憲法の効力は日本国民に由来するのであって、主権は普遍的道徳ではなく力に基礎を置くものである、と自説を保持し続けた。
- 委員の1人ベアテ・シロタ・ゴードンの起草した、憲法24条「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」について口添えして、日本政府側に認めさせた。しかし彼女の他の規定、たとえば社会福祉などの条項については「フランス憲法のように何でも書いてしまうというのは避け、簡単明瞭に書き、詳細はそれぞれの法に委ねるというポリシー」により、ケーディスによって削除されている。
憲法原案作成責任者としてのケーディスは、積極的な社会改造案を憲法に盛りこむよりは、逆に他のメンバーのそうした熱意に水を差す人物として現れる。ケーディスは自覚した社会改革支持者(ニューディーラー)だったが、草案作成委員の中で彼だけは、アメリカで普遍原則とされていることを占領軍の圧力で他国民に押しつける不当性に気づいていたようだ[要出典]。欧米の普遍的理念に基づいて日本を啓蒙しようとする理想家肌のメンバーに反対するケーディスの姿から、「他民族にとっての自治」をも含むアメリカ憲法の精神をうかがうことができる。
[編集] チャールズ・L・ケーディス文書
ケーディス文書 (The Charles L. Kades Papers) は、1947年の新憲法の形成過程に関する記録を保存しPart A,Bに分かれている。Part Aは松本丞治国務相による明治憲法の改訂版とも云える草案(1946年1月)に始まり、1947年5月3日発布の日本国新憲法の最終草案となる米国国務省案に辿り着くまでの継続する草案をすべて収める。Part Bは.覚え書、委員会議事録、書簡、チェックシート、憲法改正に関する天皇のメッセージ等を収録。