チャールズ・テイズ・ラッセル
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チャールズ・テイズ・ラッセル(Charles Taze Russell, 1852年 - 1916年)は、19世紀後半~20世紀初期のアメリカの宗教家である。キリスト教の新教派である国際聖書研究者(現在のエホバの証人)と、その統率法人であるシオンのものみの塔冊子協会(後のものみの塔聖書冊子協会)を設立し、初代会長となった。 また、エホバの証人の成立以降、牧師と呼ばれた唯一の人物である。
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[編集] 活動以前
アメリカ、ペンシルバニア州アレゲーニー(現在のピッツバーグ近辺)にアイルランド系アメリカ人の2世として生まれた。実家は男性用の洋服店で、ラッセル自身も家業の経営に関わり、概ね事業としては成功していたようだ。
当初、彼の家族がそうであったように、長老派教会に属すプロテスタントのクリスチャンであったが、後に組合派教会に移籍する。更には「地獄における永遠の責め苦」に対して大きな恐怖感情を覚え、伝統的なプロテスタント教派から離れたと言われている。その後、再臨運動に加わるまでの間に、キリスト教とは無縁の東洋の宗教にも関わったという説があるが、定かではない。
[編集] 再臨運動
組合派教会離脱からさほど時間も経過せずに、今度は当時流行しつつあった再臨派(アドベンティスト)の運動に興味を抱くようになり、活動に参加する。この流れからは、現在のエホバの証人の他に、現在の再臨派を自称する教団や、セブンスデー・アドベンチスト教会も生まれている。当然、この流れに関連する千年王国教理の支持者が再臨運動に多く参加しており、ラッセル自身も大きく影響を受け、後のエホバの証人の教理の中核を担っていく。
1874年にイエス・キリストは「見えない形で」再臨したという説を提唱する。再臨派のネルソン・バーバーと強力関係を結び、1877年にはバーバーとの共同著書「三つの世界」という本を出版している(実際にはラッセルは資金を提供するのみで執筆はバーバーが独自に行った)。内容としては聖書から導き出した独自の計算方法で、人類の祖、アダムの創造年とキリストの再臨時期、及び千年王国の開始時期の特定を宣言するものであった。また、1914年が異邦人の時の終わりであるという内容も示唆されている。
[編集] ものみの塔協会設立
協力関係にあったバーバーであったが、キリスト贖罪論の意見の相違から険悪な関係となり、袂を分かつ。ラッセルが資金を援助して発行されていたバーバーの冊子「Herald of the Morning(朝のさきぶれ)」の出資を一切停止し、自身の教理と解釈を記した雑誌、「シオンのものみの塔 及びキリストの臨在の告知者(Zion's Watch Tower and Herald of Christ's Presence)」(現在のものみの塔誌)を創刊する。
その後、ものみの塔誌上で独自の聖書・キリスト教解釈を繰り広げ、「聖書研究」等の著書も相次いで出版。聖書研究会を主宰するに至る。この頃に、キリスト教の伝統的解釈、三位一体を否定し始める。
1884年には主宰する聖書研究会の統率、及び、ものみの塔誌等を始めとする出版母体の法人組織として「ペンシルバニアものみの塔冊子協会」(現在の「ペンシルバニアのものみの塔聖書冊子協会」の前身で、中央法人として後に設立される「ニューヨーク州のものみの塔聖書冊子協会」の親会社)を設立、会長に就任する。ここに、現在のエホバの証人組織の原型が出来上がった。尚、「エホバの証人 (Jehovah's Witnesses)」と信徒が自称するのは2代会長ジョセフ・フランクリン・ラザフォードの時代からで、当時は「International Bible Students(国際聖書研究者)」と自称していた。
ラッセルは世界各国への伝道活動にも意欲的で、ものみの塔聖書冊子協会の英国法人である、「国際聖書研究者協会」等、各国に現地法人を設立、日本へも訪れた。この頃はハルマゲドンは1914年に到来するとされていた。
[編集] 晩年
[編集] 思想
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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