ツタンカーメン
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ツタンカーメン(紀元前1342年頃 - 紀元前1324年頃、在位:紀元前1333年頃 - 紀元前1324年頃)は、古代エジプト第18王朝のファラオ(王)。より厳密な表記ではトゥトアンクアメン(Tut-ankh-amen)という。
生まれについては、はっきりしておらず、アメンホテプ3世の子、スメンクカーラーの子と諸説あるが、アメンホテプ4世(アクエンアテン)と側室キヤ(Kiya)との間の子という説が有力である。アクエンアテンの生存中、唯一神アトン信仰が説かれていたためにトゥトアンクアテン(アトン神の生ける似姿)と名乗っていた。アクエンアテンの死後、即位すると伝統的な神であるアモン=ラーの信仰を復活させ、トゥトアンクアメン(アモン神の生ける似姿)と改名した。また、首都をアマルナからテーベに戻した。在位中、王妃アンケセナーメンとの夫婦仲は良かったといわれている。その後若くして死に、王家の谷に葬られた。ツタンカーメンの死後、王位は王家の血を引かない大臣や将軍たちによって引き継がれてゆくことになる。
ツタンカーメンはアクエンアテンの政策を大幅に覆したが、即位した時点でまだ年端のゆかない少年であったことがわかっており、アメン信仰復活やその死について様々な推測が語られ、歴史のミステリーとされている。最近ミイラの調査が行われた。
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[編集] ツタンカーメンの墓
王家の谷にあるツタンカーメン王の墓は、1922年11月26日にイギリスのカーナヴォン卿の支援を受けた考古学者ハワード・カーターにより発見、発掘された。ツタンカーメンは王墓としてはきわめて珍しいことに3000年以上の歴史を経てほとんど盗掘を受けなかった(実際には宝石の一部などが抜き取られていただけで副葬品自体は無事だった)、王のミイラにかぶせられた黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品がほぼ完全な形で出土した。
その発掘は世界を大いに驚かせた。発掘のスポンサーとなったカーナヴォン卿が墓の公開直後に急死するなど、発掘関係者が次々と不遇の死を遂げたとされ、ファラオの呪いの伝説が広まっている。だが、実際に不遇に死んだ関係者は少数であり、呪いは創作に過ぎない。また、ファラオのミイラに大きな外傷があったことから暗殺説を裏付けるものと注目されたが、いくつかの傷は20世紀前半当時のミイラを文化財として大事にしない風潮のために発掘時につけられたものであったことが明らかになっている。
ツタンカーメンのミイラと、黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品はエジプトに残され、現在はカイロにあるエジプト考古学博物館に収蔵されて観光客に公開されている。
[編集] ツタンカーメン他殺説
ツタンカーメンの死因は詳しくわかってはいない。有力な証拠は無いが他殺説も有り、その場合に3個の説があって容疑者も3名に絞られている。
[編集] 容疑者
- アンケセナーメン(ツタンカーメンの王妃。アクエンアテンとネフェルティティとの間の娘。後、アイの即位のときにその妻となる。)
- アイ(ツタンカーメンの死後、即位。)
- ホルエムヘブ(アイの死後、即位。古代エジプト第18王朝最後のファラオ。)
[編集] 頭部打撃説
後頭部に強い打撃を受けて、命を落としたというのが一番有名な説。上から何か落ちてきたための事故ともいわれているが、暗殺ともいわれている。また、最近ツタンカーメンのミイラをCTスキャンしたことによって作られたツタンカーメンの模型には、後頭部を殴られた形跡がないため、信憑性に欠ける。
[編集] 骨折からの感染症説
CTスキャンによって浮上した新たな説が病死。ツタンカーメンが死ぬ一日ほど前、皮膚を突き破ってしまうほどの骨折をし、その結果、傷口から何らかの細菌に感染し、命を落としたといわれている。しかし、一日で感染病にかかり命を落とすまでに至るというのも考えにくい。ツタンカーメンは華奢な体躯でありながらも健康体だったと見られるところから、その説も少し信憑性に欠ける。また、この場合には暗殺ということには結び付けにくく、事故の線が強くなる。
[編集] 政略的暗殺説
最後のひとつは毒殺説、すなわち暗殺。ツタンカーメンは白ワインを好んで飲んでいたといわれているが、そのワインに毒を盛られ、次の日には息を引き取ったといわれている。ワインは当時ファラオのみが飲む事が出来るものであり、これは、完全に政略的な暗殺と言える。この説を否定する事柄は見つからないが、この事実を裏付ける証拠もないため、現在のところあまり有力な説はといえない。
[編集] 文献
- ハワード・カーター『ツタンカーメン発掘記』
[編集] 外部リンク
- ファラオの呪い(ツタンカーメンの王墓発掘に関する呪い伝説の真相)
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