テオドラ (ユスティニアヌスの皇后)
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テオドラ(Theodra 500年頃?-548年6月28日)は東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527年-565年)の皇后。
ユスティニアヌスの皇后テオドラは、サーカスの熊使いの娘として東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスで生れた。成長したテオドラはサーカスの踊り子として、淫らなショーへの出演や娼婦まがいのことをして、生計を立てていたという。 1度は結婚して官僚である夫ともにリビアへ赴いたが、その地で離縁され、怪しい踊り子稼業をしながらアレクサンドリアなどを経由してコンスタンティノポリスへ戻り、そこで皇帝ユスティヌス1世の甥であったユスティニアヌスと出会った。
テオドラに一目ぼれしたユスティニアヌスは、525年にテオドラと結婚した。本来、踊り子と元老院議員の結婚は法律で禁止されており、皇帝の後継者とスキャンダラスな踊り子との結婚には、ユスティヌス1世の皇后エウフェミアや多くの貴族が反対したが、ユスティニアヌスは叔父ユスティヌス帝を動かして法律を改正させて結婚したのである。
527年にユスティニアヌスが叔父の跡を次いで皇帝に即位すると、テオドラは皇后となった。卑しい身分からたくましく生き抜いて来た女傑テオドラは、たびたび夫の助言者として国政に関与し、後世の歴史家には彼女を「女帝」と呼ぶ者さえいた。
特に有名なのは、532年の首都市民による「ニカの乱」の際のテオドラの対応である。歴史家で帝国軍の将軍ベリサリウスの秘書官であったプロコピオスが記した歴史書『戦史』によれば、反乱にうろたえて逃亡しようとするユスティニアヌスを制してテオドラは、
「もし今陛下が命を助かることをお望みなら、陛下よ、何の困難もありません。私達はお金を持っていますし、目の前には海があり、船もあります。しかしながらお考え下さい。そこまでして生き延びたところで、果たして死ぬよりかは良かったといえるものなのでしょうか。私は『帝衣は最高の死装束である』という古の言葉が正しいと思います。」
と言い、これによって勇気を取り戻したユスティニアヌスは反乱の武力鎮圧に成功したのだという。
ユスティニアヌスの功績は皇后テオドラの支えがあってこそのものであった。
[編集] 関連項目
- 東ローマ帝国
- ローマ皇帝一覧
- ユスティニアヌス1世
- テオドラ (テオフィロスの皇后)
- テオドラ (東ローマ女帝)