テンジン・ノルゲイ
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テンジン・ノルゲイ(Tenzing Norgay、1914年5月29日(?) – 1986年5月9日)はネパール人シェルパ。サー・エドモント・ヒラリーとともに1953年5月29日にエベレストの人類初登頂を達成した。
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[編集] 若いころ
テンジンはエベレスト山(チョモランマ)麓のネパール、クンブ地方の農民の家に育った。エベレスト登頂の頃より、長く生地もここであったと広く信じられていたが、1990年代になって、実際には現中国チベット自治区内のツェチュで生まれたが、政治的理由により秘密に付されてきたと一部から主張されるようになった。
父ガング・ラ・ミングマ(Ghang La Mingma、1949年没)と母キンゾム(Kinzom、ノルゲイのエベレスト登頂時も生存)の間に、13人兄弟の11番目(兄弟の多くは幼時に没)として生まれた彼はもともと「ナムギュル・ワンディ(Namgyal Wangdi)と呼ばれていたが、幼少時にラマの勧めで「幸運」を意味する「ノルゲイ」に改名した。
彼の正確な出生日は不明であるが、天候や作物の様子から遅い5月であったと言われていたという。そして後に本人が、エベレスト登頂の記念日であった5月29日を誕生日とすることに決めたという。(議論あり。[[1]]参照。)
少年時代、彼は二度家出をしてカトマンズに行き、やがてインド西ベンガル州ダージリンのトゥー・ソン・ブスティのシェルパコミュニティに居ついた。
[編集] 登山
1930年代、彼はイギリス隊の3回のチベット北麓からのエベレスト挑戦に、高山で荷物を運ぶポーターとして参加した。
また、インド亜大陸のさまざまな登山に参加し、1940年代初頭には現在のパキスタンにあたる地域に住んでいたこともあった。本人の談によれば、彼の経験した最も困難な登山はナンダ・デビ西嶺で、多くの人が命を落としたという。
1947年、イギリス人アール・デンマン、シェルパのアンジェ・ダワとともにエベレスト登頂に挑戦したが、失敗に終わる。3人はチベットに密入国して登山に挑んだが、高度6700メートル付近で強烈な嵐に見舞われ、登頂を断念、無事に帰還した。
1952年、レイモンド・ランベール率いるスイス登山隊の2回の探検に同行した。これはエベレスト登頂に南麓のネパール側から本気で取り組んだ最初の登山で、当時の記録となる高度8,599メートルに到達した。
[編集] エベレスト登頂成功
1953年、自身7度目のエベレスト挑戦としてテンジンはジョン・ハント卿探検隊に同行し、ヒラリーとともに初の登頂成功者となった。成功後はインド、ネパール双方から多くの賛辞を受け、一部からは文字通りブッダやシヴァ神の再来としてあがめられたという。
[編集] 家族
テンジンは3度結婚している。最初の妻、ダワ・プティは1944年に若くして没した。彼女との間には、息子ニマ・ドルジェ(4才で没)と2人の娘、ニマとペム・ペムがいた。二人目の妻は、最初の妻のいとこのアング・ラハムであった。彼女との間には実子はなかったが、彼女は継子たちを養育した。三人目の妻とは、二人目の妻の生存中に結婚しているが、これはシェルパの習慣として認められていた。三人目の妻との間には、息子ジャムリングが生まれている。他にも1953年のエベレスト探検隊に参加した甥のゴンブとトプゲイなどがいる。
[編集] エベレスト登頂後
テンジンは後にダージリンのヒマラヤ登山協会の実地訓練監督に就任した。1978年にはヒマラヤでのトレッキングを提供するテンジン・ノルゲ・アドベンチャーズを創設、2003年現在、子息ジャムリング・テンジン・ノルゲイが経営している。ジャムリング自身も1996年にエベレスト登頂に成功している。
テンジンは1986年、ダージリンにて死去した。