デヴィッド・リカード
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デヴィッド・リカード(David Ricardo, 1772年4月19日 - 1823年9月11日)は自由貿易を擁護する理論を唱えたイギリスの経済学者。各国が比較優位に立つ産品を重点的に輸出する事で経済厚生は高まる、とする「比較生産費説」を主張した。労働価値説の立場に立った。 経済学を体系化することに貢献し、古典派経済学の経済学者の中で最も影響力のあった一人であり、経済学のなかではスミスと並んで評される。彼は実業家としても成功し、多くの財を築いた。
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[編集] 生涯
リカードは17人兄弟の3番目としてロンドンで生まれた。彼の家はスペイン系ユダヤ人で、彼が生まれるほんの少し前に、オランダから英国へ移住して来た。14歳のとき、リカードはロンドン証券取引所で父親の仕事に加わった。 リカードは21歳のとき、彼の家族のユダヤ正教の信仰を拒絶し、クエーカー教徒のプリシラ・アン・ウィルキンソンと駆け落ちした。彼の父はこれを大変不幸に思い、リカードを見捨てて、二度と彼に話しかけなかった。同じ頃、リカードはユニテリアン派の教徒になった。
リカードの証券取引所での仕事は彼を裕福にし、1814年、彼が42歳のときに仕事を辞めることを可能にした。彼はそれからグロスター州の地所であるGatcombe公園を購入し移住した。 リカードは1819年、アイルランドの都市選挙区であるポーターリングトンの代表として、庶民院(下院)の議席を獲得した。彼はその地位を、彼が死亡する年まで保持していた。リカードは代議士として、自由貿易と穀物法の廃止を主張した。 彼は51歳のとき、Gatcombe公園で死亡した。
リカードは、ジェームズ・ミルの親友であり、ミルは彼に政治への大志や経済学の著述を勧めた。他の著名な友人の中にトマス・ロバート・マルサスやジェレミ・ベンサムがいる。リカードはマルサスの人口成長に関する考えを受け入れた。
[編集] 思想
リカードは、1799年に出版されたアダム・スミスの『国富論』を読み、経済学に興味を持つようになった。
[編集] 著作
- 『The High Price of Bullion, a Proof of the Depreciation of Bank Notes』 (1810)、金属通貨の採用を提唱した。
- 『Essay on the Influence of a Low Price of Corn on the Profits of Stock』 (1815)、穀物法の廃止が、社会の生産的構成員に、より多くの富を分配するだろうと主張した。
- 『Principles of Political Economy and Taxation』 (1817、『経済学および課税の原理』)、地代が人口増加につれて成長すると結論付けた分析。また、ある国がすべての財の生産においてその貿易相手国ほど効率的でなかったとしても、すべての国が自由貿易から利益を得ることができる、ということを示す「比較生産費説」を明確に展開した。
[編集] リカードに関連した他の思想
- リカードの等価命題 (Ricardian equivalence):ある条件下では、支出の財源は税金か国債(赤字財政支出)かという政府の選択は、いずれであっても経済には影響を全く与えない(あるいは、経済に与える影響には全く差がない)ということを示唆する議論。ロバート・バローの提起によって有名になったことから、「リカード=バローの中立命題(等価命題、等価原理、等価定理)」とも呼ばれる。
[編集] 外部リンク
カテゴリ: イギリスの経済学者 | 19世紀の社会科学者 | 1772年生 | 1823年没