ノガイ
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ノガイ(Noqay, ? - 1299年)は、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の有力者。チンギス・ハーンの長男ジョチの血を引く王族で、ジョチの七男ボアルの長男タタルの子、すなわちジョチの曾孫である。ペルシア語資料では نوقاى Nūqāy と表記されている。
バトゥ・ハンの時代から、ジョチウルス右翼諸軍に属していたボアル家の後継者として活躍した。ベルケ・ハンの時代、1260年にフレグ西征軍に参加していた同じ従兄弟であったトタルが反乱罪の嫌疑で処刑され、シバンの4男バラカンやオルダ次男のクリが不審死する事件が起きた。これら一連の事態をフレグの陰謀と見なしたベルケはアゼルバイジャン地方へ遠征軍3万騎を派遣し、ノガイはこれの指揮官としてフレグ・ハンやその後継者であるアバカ・ハンなど草創期のイルハン朝の軍団と交戦し多くの武功を建てた。1265年冬に、フレグが没した直後のアゼルバイジャン遠征ではデルベンドを越境してイルハン朝勢力下のムーガーン低地地方のクラ川北岸で、アバカの弟君ヨシムトと激戦となった。ここでノガイは片目を失い敗走した。これを受けてベルケ自らが軍を率いて親征し、デルベンドを越境して渡河のためにクラ川をティフリス付近まで遡上していたが、この地で急死してしまった。
その後モンケ・テムル・ハンの時代になると、ノガイは対イルハン朝戦役の前線指揮から退き、代わってバラカンの息子トクタイがタマチ(後衛)軍を率いてカフカス北麓のテレク川流域に遊牧地を与えられた。これに伴ってノガイにはジョチ・ウルス最西端にあたるドナウ川下流域に遊牧地を与えられることになった。イルハン朝との戦いなど、様々な戦いに参加している。彼の勢力圏はジョチ・ウルスの諸王族の中でも最も西部に位置し、ウルスの外にあるブルガリアやハンガリーにたびたび出兵して勢力を拡大、バトゥ家のハンをも脅かす勢力を築き上げた。
1280年、モンケ・テムルが死去すると、左翼諸軍の統帥・オルダ家の当主コニチと共謀し、その後継者にテムルの息子ではなく、バトゥ家の最年長者であるモンケ・テムルの次弟トダ・モンケを擁立して、自身はこれを影で操った。この年にはクビライがカイドゥ討伐のために皇子ノムガンを中央アジアへ派兵した時期で、対大元朝対策をコニチ、トダ・モンケとともに協議している。この時期にはノガイは右翼の最有力者にまでなり、その影響力は右翼のみならずジョチ・ウルス全体にまでおよびウルス全体の実力者として認められていた。
しかし、1287年にトダ・モンケがイスラーム神秘主義に傾倒し過ぎるという理由で、モンケ・テムルの長男であるアルグイや十男トゥグリルチャ、そして従兄弟のトレ・ブカらを首班とするバトゥ家内部の王族たちから廃位される事件が起きた。トレ・ブカはモンケ・テムルらの長兄であったタルトゥの息子であったため、長子相続を主張して叔父トダ・モンケ廃位に協力した王族たちと図り自ら即位した。しかし彼らはこの一連のクーデターに参加していなかったモンケ・テムルの息子でアルグイの弟であったトクタの有能さを認めており、トクタを抹殺しようと画策していた。トクタはカフカス境域を鎮撫していたベルケチャル家のイルキジのもとへ逃亡し、バトゥ、ベルケ以来のジョチ・ウルスの重鎮となっていたノガイに援助を求めた。ノガイはこれに協力しドナウ流域にあった自領からドニエプル川を東進し、仮病使ってトレ・ブカら王族たちを誘い出し病気見舞いにノガイの帳幕に来たところをトクタに襲わせてトレ・ブカら全員を殺害させた。
こうして1291年にはトレ・ブカを暗殺してモンケ・テムルの5男トクタを擁立した。自らは即位しないもののジョチ・ウルスの王位を左右し、ハンを上回る実権を握った。
しかしその後トクタとも対立し、ついに1299年にトクタとドン川河畔で交戦した。この時トクタは敗北してサライまで逃走したが、この勝利にともなってクリミア半島の諸都市を掠奪したため麾下の将軍たちがこれを非難して秘かにトクタにノガイの捕縛に協力する旨を伝えて来た。カフカス北麓のテレク川流域の諸軍を味方につけたトクタは、これを聞くと形成を立て直して反攻に出た。ノガイとその息子たちはトクタの軍勢と交戦したが今度は敗北した。息子たちはハンガリー方面のノガイの所領へ逃げ延びたが、彼自身はこの戦いで戦死したとも、追撃部隊に捕縛されてしまい、トクタの宮廷に連行される途中で自殺したとも伝えられる。
イルハン朝とは1265年のアゼルバイジャン地方を巡る境域紛争での敗退以降は、ジョチ・ウルスとアバカ、アルグンらイルハン朝の君主たちと友好関係を築く事に尽力した。トクタ・ハンと不和になり対立した時期は、ガザン・ハンに調停してもらうよう依頼したが、ガザンはジョチ・ウルス内部の紛争には不干渉を表明したためイルハン朝を介した調停工作は失敗に終わった。