ハレとケ
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ハレ(晴れ)とは、折り目・節目を指す言葉であるが、民俗学や文化人類学においてハレとケという場合、ハレ(晴れ)は儀礼や祭などの「非日常」、ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表している。
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[編集] 概要
[編集] 民俗学
ハレとケという概念関係の捉え方は、柳田國男が近代化による民俗の変容を指摘する一つの論拠として、ハレとケの区別の曖昧化が進行していること(例えば、ハレの儀礼時にのみ行っていた特別な飲食が日常的に行われる、など)を提示したのが始まりである。柳田は何世代か前の人々のハレとケの区別の仕方と柳田の同時代の人々のハレとケの区別の仕方を比較し、そこから未来への潮流を読みとろうとした。当初ハレとケという捉え方はそれほど注目を集めなかったようであるが、和歌森太郎が着目してから後、広く学界内で知られるようになった。ただ民俗学においては、柳田が目指した過去・現在の比較から未来を読みとくという通時的分析を志向せず、長らくハレとケの二項図式を公理のようにみなした民俗構造の共時的な分析に傾斜し、もっぱらハレの非日常=儀礼や祭りに対して関心が寄せられていた。
1970年代に入ると、多分に構造主義の影響を受けて、新たな議論がハレとケについて巻き起こる。伊藤幹治を皮切りにした議論は、波平恵美子、桜井徳太郎、谷川健一、宮田登、坪井洋文らによるシンポジウムで一つのピークに達する。そこでは、ハレとケの関係に新たにケガレという概念を加味するべきではないかということや、論者によってハレとケとケガレ(あるいはハレとケ)に対する捉え方が多様であることが確認された。ハレとケとケガレのモデルには、日常生活を営むためのケのエネルギーが枯渇するのがケガレ(褻・枯れ)であり、ケガレはハレの祭事を通じて回復すると唱える桜井の循環モデル等がある。しかしながら、研究者間のハレとケとケガレ(ハレとケ)の議論の隔たりは現在も解消されておらず、統一的な定義を打ち出せずに今日にいたっている。
ハレとケは「ハレ=聖」「ケ=俗」の関係で論じられることもある。とりわけ、聖なる時間/俗なる時間という区分けとハレ/ケという区分けは相互に共通する部分がある。しかしながら、聖と俗という概念もハレとケと同様に、論者によって定義が異なっており、概念相互の関係を論ずるには注意を払う必要がある。
[編集] 一般的な意味
一般用語として、ハレは「晴れの舞台」(=生涯に一度ほどの大事な場面)、「晴れ着」(=非日常に着用する衣服)などの言い回しで使用される用法があり、これらが民俗学用語のハレの語源となっている。
ハレの場においては、服装、化粧、食品、飲料、振る舞いなどにおいてケとは異なるのが一般的であるが、居住空間や場所にまでにも違いを求めることも行われる。