ハンプトンローズ海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハンプトンローズ海戦 | |
---|---|
戦争: 南北戦争 | |
年月日: 1862年3月8日 - 3月9日 | |
場所: バージニア州ハンプトンローズの河口付近、シーウェルズ・ポイント沖 | |
結果: 戦術的には引き分け、戦略的にはアメリカ合衆国の勝利 | |
交戦勢力 | |
アメリカ合衆国 | アメリカ連合国 |
指揮官 | |
ジョン・L・ウォーデン(en:John Lorimer Worden) | フランクリン・ブキャナンen:Franklin Buchanan
ケイツビー・R・ジョーンズen:Catesby R. Jones |
戦力 | |
装甲艦1、木造軍艦3 | 装甲艦1、木造軍艦2、砲艦1、補給艇2 |
損害 | |
木造軍艦2沈没、1損傷、261人死亡、108人負傷 | 装甲艦1損傷、7人死亡、17人負傷 |
ハンプトンローズ海戦(--かいせん、Battle of Hampton Roads)、別名モニターとメリマックの戦い(the Battle of the Monitor and the Merrimack)は南北戦争中に生起した海戦。この海戦は動力化され鉄で覆われた軍艦(すなわち装甲艦)同士の歴史上最初の戦いとして有名であり、アメリカ合衆国軍の革新的な設計の装甲艦モニターとアメリカ連合国軍の装甲艦ヴァージニア(これはUSSメリマックの焼けた船体を改造したものである)が交戦した。主要な海戦は1862年3月8日から9日にヴァージニア州ハンプトンローズ河口付近のシーウェルズ・ポイント(Sewell's Point)沖で行なわれた。
戦闘は二日間続いた。一日目はヴァージニアの初登場であり、モニター抜きでの戦いだった。北軍の木造艦は大損害を受け、その日は南軍の決定的優位のままに終わった。しかしながら、二日目にはモニターが到着し、「装甲艦の決闘」として知られる有名な戦闘が始まった。明確な勝敗は付かなかったが、海戦史において深い意義を持つ戦闘となった。この戦い以前にはほとんど全ての軍艦が木を主な材料として作られていた。この戦いの後、船と海戦の様相は劇的に変化した。世界中の国家が自国の艦隊を先を争って鉄製に変えたのである。なぜなら敵の砲撃に耐える能力において、装甲艦が木造艦より優れていることが明白に証明されたからである。
目次 |
[編集] リンカーンのハンプトンローズ封鎖の試み
南北戦争の勃発当初から、エイブラハム・リンカーン大統領は合衆国を脱退した南部の州を合衆国に戻す計画を実行した。彼は強力な合衆国の海軍を用い、アメリカ連合国の大西洋とメキシコ湾沿岸を封鎖しようとし、戦争が激化すると封鎖を命じた。
1861年春、地上兵力主体の南軍はヴァージニア州ノーフォークに迫り、ハンプトンローズの南側の地域を包囲した。合衆国海軍はノーフォークからエリザベス川を挟んだ対岸にあるポーツマスのゴスポート造船所を焼き払い撤退した。この際、ボストン製の(※?)フリゲート艦USSメリマックを含む9隻の船が破壊された。しかしながら、軽率さと混乱のため、メリマックは喫水線より上側が燃えたに過ぎなかった。
この撤退により、ヴァージニア州のタイドウォーターで合衆国が支配しているのはハンプトンローズ北側のヴァージニア半島、オールド・ポイント・コンフォート(Old Point Comfort)のモンロー砦(Fort Monroe)のみとなった。海峡は北に向かって狭まっていたが、本土のモンロー砦は海峡の南にある人工島(後に言う羊毛砦(Fort Wool)である)の軍事基地によって補助されていた。(※?)
ノーフォークの占領は南部連合に唯一の大型造船所と数千の重火器を与えた。南軍准将ウォルター・グウィン(この人物はノーフォーク周りの防衛を指揮した)はノーフォークを守り、ハンプトンローズを制するという二つの目的でシーウェルズ・ポイントに砲台を建設した。
合衆国は封鎖を執行するために木造軍艦の艦隊をハンプトンローズに急派した。羊毛砦とモンロー砦はハンプトンローズから、チェサピーク湾と大西洋という二つの経路でしっかりと結合していた。しかしながらジェイムズ川とエリザベス川という内陸の水路は南部連合海軍(こちらも木造艦を使っていた)が制していた。小競り合いはあったが、どちらの海軍も相手を打ち負かすことができなかった。1861年の残りと1862年の序盤を通じて、膠着が続いた。
[編集] 装甲された軍艦・新技術
装甲艦とは防御のために厚い鉄板で覆われた軍艦である。海戦での防御に初めて鉄が使われたのは極東において、16世紀のことであった。(朝鮮の提督李舜臣はそれを1592年に作った※)。世界初の外洋向け鉄製船体の装甲された戦艦、フランスのラ・グロワールはごく最近まで解体されずにいた。とは言え、伝統的な木造の帆船に装甲を施すために鉄が使われることは、南北戦争初期の北アメリカではまだ発展途上の技術であった。
1862年の初め、合衆国と南部連合の両政府はともに敵方が対船舶用の装甲艦らしきものを作ろうとしていることに気付いた。スパイたちが情報を送ってきた。双方が新技術で優位に立つことを切望し、また相手が先に完成させることを恐れた。
合衆国と南部連合による最初の装甲艦は、現代の軍艦との比較において非常に奇妙な外観をしており、そしてまた互いにも随分と違っていた。ハンプトンローズへと歴史的な出航を果たした時、どちらの艦も、それぞれの設計者からすれば甚だ不満足な状態にあった。
[編集] CSSヴァージニア
1861年、ヴァージニア州ポーツマスのゴスポート造船所から撤退する際に、北軍はUSSメリマック(Merrimack)を燃やした。しかし艦は喫水線までしか燃えなかった。南軍の下で、造船所はその焼き尽くされた船体を鉄で覆い、上部構造を減らし、再建した。1862年2月17日、南軍はメリマックをCSSヴァージニア(Virginia)として就役させた。
鉄の装甲が砲火を無効にすると考えて、ヴァージニアの設計者は艦に衝角(普通は古代のガレー船を連想させる兵器であって、現代の軍艦には縁がない)を装備した。
完成を目指す全力の努力にも関わらず、ヴァージニアは出航時にまだ作業員を乗せていた。そして通例の海上試験または航海中の訓練をしないまま、大急ぎで軍務に付いた。
- このトピックの詳細についてはヴァージニア (装甲艦)を見よ。
[編集] USSモニター
USSモニター(Monitor)は全く新しい設計に基づいた、そしてリンカーン大統領の支持を受けたプロジェクトであった。ジョン・エリクソン(en:John Ericsson)によるユニークな設計は、斬新な回転砲塔(二門の11インチ(28mm)ダールグレン式滑腔砲を備える)を特徴としていた。こちらも(ヴァージニアと同様に)水上への露出部分は低く、敵から見えるのは甲板のごく一部と砲塔だけであった。モニターの船体はニューヨーク、ブルックリンのグリーンポイント区にある大陸鉄工社(Continental Iron Works)で組み立てられ、そこで1862年1月30日に進水となった。乾舷を増すために、装甲は本来の設計より減らされなければならなかった。だが、装甲を減らした場合でさえ、ヴァージニアの乾舷はたったの14インチ(35cm)に過ぎなかった。
- このトピックの詳細についてはモニター (装甲艦)を見よ。
[編集] 装甲艦同士の最初の激突
[編集] ヴァージニア、北軍の木造艦に大損害を与える
戦闘が始まったのは1862年3月8日の朝、南部連合海軍の大きくやや扱いづらいCSSヴァージニアがハンプトンローズに動力航行して来て、北軍の封鎖を打ち破ろうと行動を開始した時であった。
フランクリン・ブキャナン艦長に指揮されたヴァージニアは、ローリー(Raleigh)とビューフォート(Beaufort)に援護され、なおかつパトリック・ヘンリー(Patrick Henry)、ジェイムズタウン(Jamestown)、そしてティーザー(Teaser)に随伴されていた。
ヴァージニアは北軍の小艦隊へとまっすぐに向かった。距離がUSSカンバーランド(Cumberland)から1マイルを切り、封鎖船と地上砲台の全てが砲火を開いたとき、攻撃を開始した。ヴァージニアはカンバーランドの喫水線下に衝角攻撃を加え、同艦を即座に沈没せしめた。「水上にある限り、その砲座は雄々しく撃ち続けた」とブキャナンは勇敢な敵を称賛して報告している。
ブキャナンは次に艦をUSS コングレス(Congress)の方へ転じた。カンバーランドに起きたことを見て、コングレスの艦長は艦を浅瀬に座礁させるように命令した(※?)。この時までには、ジェイムズ川小艦隊(ジョン・ランドルフ・タッカーの指揮下にあった)が到着し、コングレスを攻撃するヴァージニアと合流していた。この状態が1時間続いた。その後、ひどく損傷を受けたコングレスは降伏した。コングレスの乗務員の生き残りが艦から退去する間、北岸にある合衆国の砲台はヴァージニアに対して砲撃を開始した。報復として、ヴァージニアの艦長はコングレスにred-hot shotと焼夷弾で砲撃を加えるよう命令した。コングレスは反逆(※?)の装甲艦による砲火が弾薬庫を爆発させたことにより、爆沈した。ヴァージニアもまた損傷した。カンバーランド、コングレス、そして陸の部隊による砲撃が煙突を穴だらけにしたため、元来の遅かった速度がより落ちたのである。二門の砲が使用不能になり、装甲版は数枚が外れてしまった。
一方、ジェイムズ川小艦隊は、戦闘に参加するべくモンロー砦を出て座礁していた(※?)USSミネソタに注意を転じていた。ヴァージニアは、コングレスの降伏に対処した後、損傷にも関わらずジェイムズ川小艦隊と合流した。なぜならばその深い喫水のため、ヴァージニアは深刻と言えるほどの損傷を受けることがなく、そして暗闇が砲撃を効果的に行うことを妨げていたからである(※?)。ヴァージニアは翌日に再来して北軍の艦隊を全滅させることを目論みつつ引き揚げた。夜の間は南軍が制海権を持つ水域に退いたのである。
この一日は、まさしくヴァージニアの独壇場であった。とは言え損失がないわけではなかった。衝角の一部がもぎ取られて、傷ついたカンバーランドの横腹に刺さったまま失われた。ヴァージニアが岸の砲台から撃たれている間、ブキャナン艦長はマスケット弾によって大腿骨を折った。この事態はケイツビー・R・ジョーンズ副長を艦長の後任にすることを余儀なくした。ブキャナンの脚は後に切断された。
南部連合の海軍長官スティーブン・マロリーは南部連合大統領ジェファーソン・デイヴィスへの手紙で、この戦闘のことを以下のように書いている。
- 「艦隊の士官たちと兵たちの行いは……彼ら自身と連合海軍に不滅の栄光をもたらしました。報告はとても興味深いもので、その詳細は必ずや熱情を掻き立て、我が軍の勇敢な水兵たちの士気を高めるでしょう。またこの報告はヴァージニアがかつて水に浮かんだいかなる船とも全く異なり、造船学上の新機軸だったことを思い出させるでしょう。本艦の最も重い砲は火器中の新機軸に等しいこと……その動力および操舵特性は未だかつて試みられた事がなく、士官と兵は船にも互いにもほとんど初対面だったこと……これら全ての不利な要素の下で、意思力の権化たる士官ブキャナンの活発な勇気および完全無欠な玄人の手腕、そして彼の部下たちの協力は、海戦史上で最もめざましい勝利を達成したのです」
合衆国海軍にとっては恐ろしい、そして士気を挫かれる一日だった。夜遅くに、ジョン・L・ウォーデン大尉が指揮をとるUSSモニターがハンプトンローズに到着した。こちらの装甲艦は味方の艦隊を保護し、ヴァージニアが北部の都市を脅かすのを防ぐために急がされて来たのだった。
「戦いの趨勢は、新造艦モニターのかつて無い労苦と時を得た到着にかかっている」ジョン・A・ダールグレンはそう評している。
[編集] モニター、ヴァージニアと交戦する
翌朝、すなわち1862年3月9日、困難な修理の後で、ヴァージニアは座礁中のミネソタにとどめを刺すべく再出撃した。その旅程は新たに到着したモニター(後に反乱船(※?)の指揮官によって「チーズ箱を載せた筏のような」と書き記される)によって阻止された。
戦闘が1時間、主に至近近距離で行われたが決着はつかなかった。小型で敏捷なモニターはヴァージニアを翻弄できた。しかしどちらの艦も相手に致命傷を与えることができなかったのである。最終的に、「戦場」を占有したモニターおよび合衆国艦隊の残りをあとにしてヴァージニアが退却した。どちらの側も勝利を宣言した。戦術的な戦いは決着がつかなかったとは言え、戦略的にはヴァージニアは北軍の封鎖を除去できなかったし、戦略的バランスは北軍優位のまま変わらなかった。
二隻の艦がどちらも機能不全だったにしろ、モニターの砲はヴァージニアの砲と比べてかなり強力であった。ヴァージニアが辛うじてモニターの装甲をへこませただけなのに対して、モニターはヴァージニアの装甲板に数ヶ所のひびを入れた。攻撃の際、モニターのクルーは主に実体弾を使ってヴァージニアの上部構造を狙った。設計者エリクソンは、それを聞いた時に激怒して叫んだ。もし彼らが榴弾を使い喫水線を狙ったならばヴァージニアは容易に沈んでいただろうに、と。(Ken Burnsのドキュメンタリー"The Civil War, episode 2: A Very Boody Affair: 1862"より引用。)
[編集] 1862年春 - ハンプトンローズでの引き分け
続く2ヶ月の間、モニターを戦闘に引きずり出すべくヴァージニアは数回の単機出撃を遂行した。たいていの日、ヴァージニアはクレイニー島(Craney Island)かシーウェルズ・ポイントに向けてエリザベス川をゆっくりと動力航行で下った。ハンプトン・ローズの向こうには、南軍の船をモンロー砦の方へおびき出そうと、モニターおよび莫大な数の艦船が待ち受けていた(※?)。
北軍の計画はヴァージニアを都合の良い水域に引きつけることであった。モニターはどうしても避けようがない場合を除いて戦いに参加しないよう、大統領命令を受けていた。合衆国海軍省(The Union Navy Department)はヴァージニアを倒すという至急の目的のため、数隻の大型蒸気船を賃借していた。ヴァージニアを深い水に叩き込み、沈みかけの甲板の両端に大型蒸気船で乗り上げ、望むらくは沈没させる。それが計画であった。(※?)
ヴァージニアはモニターを戦いに誘い出すために二度ハンプトンローズ侵入を敢行したが、大統領命令のためモニターは挑戦は応じなかった。
予期されていた海戦は現実化しなかった。USSモニターとCSSヴァージニアの対決は二度と起こらなかった。
[編集] 海戦事情への衝撃
この戦闘に関する海戦思想上の広範な印象がUSSポトマックのレヴィン・M・パウエル艦長によって次のようにまとめられた(※?)。「モニターとメリマックの戦いに関する報せは、同盟した(※?)艦隊の専門家たちの中で、甚大極まるセンセーションを巻き起こした。彼らは言葉と同じだけの沈黙によって事実を認識した。海戦という事象が今や別のものに見えることを。戦列の立派なフリゲートや艦船……浮かんでいる物であれば何でも半時間で破壊できると一ト月前には考えられていた……が全くもってその図体に引き合わないものであることを。そして彼らの自信は、これらの驚嘆すべき事実を前にして一度は雲霧消散したのだった」と。そしてダールグレン大佐はこう表現した。「今や鉄の支配がやって来た。そして鎧われた艦艇が木造の船に取って代わるだろう」。
[編集] 有名な二装甲艦の最期と遺産
ハンプトンローズ海戦の後では、どちらの艦も戦争で大した役を果たすことはなく、1862年まで生き残った。
ハンプトンローズを囲む土地での戦局は、南軍にノーフォーク地区を見捨てることを強いた。1862年5月10日、ノーフォークとポーツマスから撤退するとき、ヴァージニアの士官と兵は2-3の選択とともに残された。ジェームズ川をリッチモンドまでさかのぼるにはヴァージニアは喫水が深すぎることを、そしてこの退却を確実に予期しているモンロー砦から派遣されて待ち受ける北軍の艦隊をやり過ごし、ハンプトンローズをうまく脱出するチャンスがほとんどない事を、ジョサイア・タットナル司令官はよく理解していた。
鹵獲されるのを防ぐため、1862年5月11日の早朝、タットナルはヴァージニアをクレイニー島へ乗り上げて火を放つよう命令した。約1時間に渡って猛烈に燃えた後、炎は弾薬庫に達し、艦は大爆発とともに破壊された。
1876年5月30日、戦後10年以上たって、ヴァージニアの残骸が引き揚げられてポーツマスの造船所に運び戻され、分解された(※?)。
装甲、錨、砲を含むヴァージニアの一部分は、ポーツマスのノーフォーク海軍造船所およびニューポートニューズのthe Mariners' Museumに展示されている。ヴァージニアの錨は the Museum of the Confederacy(リッチモンド、1890年創立)の正面の芝生に鎮座している。
USSモニターはモニター艦の原型となった。河川用モニター艦を含む多数の後継機が作られ、ジェームズ川とミシシッピ川において南北戦争の鍵となる役割を演じた。しかしながら、その設計が河川での戦いに非常によく適合していることは証明されたが、低い船体と重い砲塔は荒い海での航行性能を貧弱にする原因となった。1862年10月、ノース・カロライナ州ハッテラス岬沖で元祖モニターを早い最期に導いたのは、おそらくこの特徴である。1973年、残骸が見つかっている。
[編集] 戦闘を記念して
[編集] 歴史的な名前メリマック
有名なハンプトンローズ海戦で南軍が使った軍艦の名前は、混乱を招き続けている。この艦は南軍によって再建されCSSヴァージニアとして就役させられたのだが、北軍はこの南軍装甲艦をむしろ「メリマック」という元の名前で呼ぶことを好んだ。北軍が南北戦争に勝ったためだろうが、アメリカ合衆国の歴史はふつう北部バージョンで記録されている。しかし、少し経って、一般に使われる名前が語尾の"-k"を落とすことにより短縮され、だからして"the Battle of the Monitor and the Merrimac"となった。どちらの綴りもハンプトンローズ地方でいまだに使われている。
[編集] 南軍の装甲艦
この南軍装甲艦のために鉄が作られた場所にほど近いMontgomery Countyにある小さな村落が、今ではヴァージニア州メリマック(Merrimac, Virginia)として知られている。そこで採掘されて装甲艦を鎧った鉄が、ポーツマスのノーフォーク海軍造船所に展示されている。他の破片はニューポートニューズのMariners's Museumとリッチモンドのthe Museum of the Confedracy(そこには長年に渡って錨が置いてある)に展示されている。(※訳注: 以上の二文、前々節とダブる。)
[編集] 1907年のジェイムズタウン博覧会
ジェームズタウン博覧会は数ある世界博の1つで、20世紀序盤の合衆国では有名な博覧会であった。それはノーフォークに近いハンプトンローズのシーウェルズ・ポイントで1907年4月26日から12月1日まで催された。ジェームズタウン入植300周年が祝われた。
最も知られたアトラクションの1つに、ハンプトンローズ海戦(40年前、博覧会の開催地から見える範囲内で勃発した)の再現があった。模造メリマック=モニターの外観はかなり軍艦らしく見えた……中身は海戦の様子をぐるりと並べた展示室になっていたのだが。
[編集] モニター・メリマック記念橋
1992年、ヴァージニア州の陸運局は4.6マイル(7.4km)のモニター=メリマック記念橋(Monitor-Merrimac Memorial Bridge-Tunnel)を完成させた。州間道路664を通すこの重要なリンクは、ハンプトンローズの、有名な「装甲艦の激突」が起きた場所のすぐ近くを横切っている。長さ4800フィート(1460m)で4車線のトンネル、二つの人工portal island、そして3.2マイル(5.1km)の橋脚を含むこの橋の建設には400万ドルが投じられた。北へ行く際には、歴史的海戦の舞台が絶好の眺めである。
[編集] USSモニター - 再発見と展示
大陸棚で人知れず111年間の眠りをむさぼったのち、モニターの残骸は1973年に科学者のチームによって探し出された。船の残りはハッテラス岬の16マイル(26km)沖合、深さ240フィート(73.2m)の比較的平坦な海底の砂地で見つかった。モニターの船体は砲塔が下、甲板が上、つまり上下逆さまに横たわっていた。1987年、その場所は難破事故としては初めてアメリカ国定歴史建造物に指定された。
モニターの状態悪化のため、残っている重要な人工物と船本体をすぐに回収することは不可能であった。それ以来、新技術を用いて、何百もの壊れやすい人工物(砲塔およびそれに付随する二門のダールグレン砲、錨一つ、蒸気機関、スクリュー)が回収され、注意深くハンプトンローズに運び戻されている。
USSモニター・センターはニューポートニューズのMariners' Museum(そこには元々、ヴァージニア由来の物もあり、モニターの物は後から付け加わった)では人気がある。
[編集] この海戦を扱ったフィクション
- 宮崎駿「甲鉄の意気地」 - 短編漫画(絵物語)。大日本絵画社『宮崎駿の雑想ノート』(1992年、増補改訂版1997年)所収。
- 吉岡平『南軍騎兵大尉ジョン・カーター』 - 長編小説。ソノラマ文庫(2005年)。
カテゴリ: 海戦 | アメリカ合衆国の戦闘 | 南北戦争の戦闘