バントゥースタン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バントゥースタン (Bantustans)は、南アフリカ共和国に創設された黒人居住地区。のちに南アフリカ政府によってホームランド(Home land)と呼ばれる。
目次 |
[編集] 発端
アパルトヘイトの建国者といわれることがある南アフリカ共和国首相フルウールトは、同法に対する国際社会の非難をかわすために1959年にバントゥー自治法を制定し、南アフリカを白人地域(87%)と黒人地域(13%)に二分し、黒人地域に関しては10の主要集団ごとにバントゥースタンを創設した。1970年のバントゥー・ホームランド市民権法により、すべてのアフリカ人がいずれかの「ホームランド」の「市民」とされた。そして各バントゥースタンに初めの段階で一定限度の自治を与え、次いで独立させた。1976年にトランスカイが「独立」したのをはじめとして1981年までにボプタツワナ、ヴェンダ、シスカイがこれに続いた。南アフリカ政府による公式名称はリザーヴ(Reserve)、バントゥースタン、バントゥー・ホームランド、黒人国家(Black States)、黒人民族国家(Black Nationale States)、民族国家(National States)などと変遷するが、国連は「独立不承認」を決議し「TBVC諸国」と呼ばれた。ンデベレ、レボワ、ガザンクル、カングワネ、クワクワ、クワズールーは「自治領」(Self governing territories)とされた。
[編集] 実状
アフリカ人を生まれた土地・部族から引き離し、政府の規準による民族単位に再編成するこの制度は、当初から国内外の批判にさらされた。当人の意志にかかわらず住まわせる場所をホームランド=故国と呼ばせるのは欺瞞であるとの立場から括弧付きで使ったり、軽蔑と揶揄をこめた用語である「バントゥースタン」が使われることが多い。
南アフリカの黒人意識運動の活動家、スティーヴ・ビコは1970年代に書いた文章で次の事実を指摘した。
- バントゥースタンとして指定されている地域は、この国でもっとも開発されておらず、農耕にも牧畜にも適していない土地であること。海に面しているバントゥースタンもなく、鉱産物の権利は南アフリカ政府が厳格に保有している。
- バントゥースタンに認められる実行予算がきわめて低く抑えられている。
- すべてのバントゥースタンにおける産業の管理と成長は、「バントゥー投資公社」に握られている。この金融機関はバントゥースタンの経済活性化のための非営利的な組織だとされているが、野心的なアフリカ人商人や実業家を搾取している、という評判がある。
- バントゥースタン境界地域で急成長している産業は、政府の補助金を受けて生産物は課税を免れているのにもかかわらず、これらの工場では都市部で支払われる賃金の約三分の一という低賃金しか支払われていない。そして産業評議会の合意が効力を持つ地理的範囲からも外れているため、バントゥースタンから出稼ぎに来るアフリカ人労働者は、労働組合を組織することさえできず雇用者のされるままになっていること。
ビコは結論として「バントゥースタンは白人の政治家がこれまでに考案した単一の詐欺行為としては最大のものである」と断言した。
バントゥースタンの「国民議会」の議席の多くは指名議席であり、その財政の40~80%を政府からの援助に依存していた。1959年の段階で理論上の「国民」の半分近くが白人地域に住んでおり、1960年から1983年の間に、さまざまな法律によって白人地域から強制移住させられた人々の数は350万人にのぼる。
[編集] 崩壊
各バントゥースタンは独自の治安法を持ち、そこの指導者はアパルトヘイト国家の直接の弾圧者、黒人の利害を裏切った「アンクル・トム」として広く黒人大衆の怒りを買っていた。それとは対照的に、政府役人の汚職が蔓延していたトランスカイで、1988年に無血クーデタにより政権を取ったホロミサ将軍は大きな支持を得た。1994年暫定憲法の発効によって「独立」していたバントゥースタンは南アフリカに再統合されたが、その直前ボプタツワナ、シスカイ、レボワの親アパルトヘイト派政府は公務員ストなどによって劇的な崩壊を遂げたのである。
[編集] 南アフリカのTBVC(バントゥースタン)諸国
[編集] 「独立国」となった黒人居住地区
[編集] 「自治領」となった黒人居住地区
- クワズールー(1972年)
- レボワ(同年)
- ガザンクル(1973年)
- クワクワ(1974年)
- カングワネ(1977年)
- クワンデベレ(1981年)
[編集] 現在のナミビア領にあったTBVC(バントゥースタン)諸国
ナミビアは実質的な南アフリカ共和国領であったため、同様の政策が行われた。1989年にすべてのバントゥースタンが消滅した。
[編集] 「自治国」となった黒人居住地区
- ヘレロ自治国(1970年)
- カバンゴ自治国(1973年)
- オバンボ自治国(同年)
- 東カプリビ自治国(1976年、同年にロジ自治国に改称、1984年に南アの直接統治に。2002年10月7日にナミビアから独立と、イテンゲ自由国の建国を宣言した。)
[編集] 「自治国」にまでならなかった黒人居住地区
- バスターランド(1979年)
- ナマランド(1980年)
- ダマラランド(同年)
- ツワナランド(同年)
[編集] 参考
- S・ビコ『俺は書きたいことを書く』1988年、現代企画社 ISBN 4773888059
- R・オモンド『アパルトヘイトの制度と実態』1989年、岩波書店 ISBN 400000042X
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 人種差別 | 南アフリカ共和国の歴史