モンマルトル
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モンマルトル (Montmartre) はパリで一番高い丘。セーヌ川右岸18区にあり、パリ有数の観光名所である。サクレ・クール寺院、テルトル広場、キャバレー「ムーラン・ルージュ」、モンマルトル墓地などがある。
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[編集] 初期の歴史
モンマルトルの名は、『Mont des Martyrs(殉教者の丘)』が由来である。紀元272年ごろ、この丘の付近で、後にフランスの守護聖人となったパリ最初の司教聖デニス(サン・ドニ)と二人の司祭ラスティークとエルテールの3人が首をはねられて殉教したと伝えられている。
1534年8月15日、モンマルトルの丘でイグナチオ・デ・ロヨラはフランシスコ・ザビエルら六人の同志と共に誓いを立て、イエズス会の創設の端緒となった。
フランス革命時は暗殺されたジャン=ポール・マラーを記念してモンマラーと改称されたが、革命収束後モンマルトルに戻された。
モンマルトルは長い間パリ郊外の農地であり、ブドウ畑と風車がシンボルであった。また丘の上には大きな女子修道院が建っていた時代もあった。
[編集] 19世紀
都市化が進むのは19世紀半ばである。ナポレオン3世の指示でオスマン男爵によるパリ大改造が行われ、多くの市民が中心部の家を失い、パリ外縁部のフォーブール(近郊)へ移転を余儀なくされた。その移転先の一つがモンマルトルであった。
パリの税金や規制が適用されず、また長年丘の上の修道女たちがワインを作っていたことは、モンマルトルが飲み屋街に変わる原因となった。19世紀末から20世紀初頭、モンマルトルはデカダンな歓楽街となり、ムーラン・ルージュやル・シャ・ノワールといったキャバレーが軒を連ね、有名な歌手やパフォーマーらが舞台に立った。
1876年から1912年にかけてモンマルトルの丘の上にサクレ・クール寺院(Basilica of the Sacré Cœur)が、1871年の普仏戦争敗戦後にその償いとして一般の寄付で建設された。白いドームは街中から見えるパリのランドマークになった。
[編集] 芸術家の街
19世紀半ば、ヨハン・ヨンキントやカミーユ・ピサロといった芸術家たちがパリ大改造で整備されてしまった市内を離れ、まだ絵になる農村風景の残っていたモンマルトルに居を移すようになった。安いアパートやアトリエ、スケッチのできる屋外風景を求める画家達が後に続き、19世紀末にはモンマルトルはパリ左岸のモンパルナスに対抗する芸術家の集まる街へと変貌した。
パブロ・ピカソ(1904年から1909年までの間)、アメデオ・モディリアーニ、ほか貧乏な画家達やがモンマルトルの「洗濯船(Le Bateau-Lavoir)」と呼ばれる安アパートに住み、アトリエを構え制作活動を行った。ギヨーム・アポリネール、ジャン・コクトー、アンリ・マティスらも出入りし議論する活発な芸術活動の拠点となったが、1914年以後は多くはモンパルナスなどへ移転した。
ナビ派などの芸術集団がモンマルトルで組まれ、ほかに様々な美術家、詩人、劇作家、小説家などが生活・制作した。代表的な人物には、フィンセント・ファン・ゴッホ、ピエール・ブリソー、アルフレッド・ジャリ、ジャック・ヴィヨン、レイモン・デュシャン=ヴィヨン、アンリ・マティス、アンドレ・ドラン、シュザンヌ・ヴァラドン、ピエール=オーギュスト・ルノワール、エドガー・ドガ、モーリス・ユトリロ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、テオフィル・アレクサンドル・スタンランらがいる。彼らはモンマルトルを制作の場にしたほか、モンマルトルの風景を描いた作品も制作した。
モンマルトルのボヘミアン芸術家の最後の人物といえるのが1975年に亡くなったジェン・ポール(Gen Paul)であろう。彼はモンマルトルに生まれ、ユトリロの友人だった。ラウル・デュフィに多くを負う書道のような表現主義的な筆致のリトグラフには、絵になるモンマルトルの記憶を残したものもある。
1965年にリリースされフランス国内で人気を博したシャルル・アズナブールの『ラ・ボエーム(La bohème)』という曲は、彼の若い頃のモンマルトルでの思い出を歌ったものである。彼の親もモンマルトルに流れてきたアルメニア人であったが、彼はこの曲を、モンマルトルがボヘミアンたちの根城だった最後の日々への別れの歌であると述べている。
モンマルトルは第一次世界大戦の直前あたりから急速に観光地化・高級住宅地化(ジェントリフィケーション)が進み、地価高騰と混雑を嫌った芸術家たちはモンパルナスに移っていった。
[編集] モンマルトルの現在
モンマルトル博物館は、モーリス・ユトリロが2階をアトリエにしていた建物に入居しており、ブドウ畑時代からエコール・ド・パリに至るモンマルトルの歴史を知ることができる。その後ろの庭園の中にある邸宅はモンマルトルで一番古いホテルで、1680年にこの建物を買ってホテルにした最初の所有者の一人がクロード・ロゼ(Claude Roze、別名 Roze de Rosimond)という役者であった。彼はモリエールの劇団を引き継いだが、前任者同様舞台の上で死んだ人物である。このホテルはルノワールの最初のモンマルトルでの住居であり、ほかにも多くの歴史的人物が宿泊者名簿に名を連ねている。
有名な画家の多くがモンマルトル墓地やサン・ヴァンサン墓地に葬られている。モンマルトル墓地はモディリアーニが自殺した場所でもある。
日夜、多くの観光客がテルトル広場、サクレ・クール寺院、キャバレー・ラパン・アジル、ムーラン・ルージュ、ピカソらのアトリエ、ユトリロの描いた風景を訪ねて歩いている。映画『アメリ』の公開後はロケ地めぐりの観光客も増加した。サクレ・クール寺院へは丘の南麓からケーブルカーが観光客を乗せて運行されている。
モンマルトルは歴史地区に指定され、その歴史的景観や特徴を保持するため開発は最小限度しか許可されない。バルベ地区は移民が多く、アフリカやアラブの物産が手軽に買えるが治安はあまり良くない。一方、モンマルトルの西南麓のピガール地区はパリ随一の猥雑な歓楽街・風俗街で、風俗店やビデオ店、アダルトショップなどが並んでいることでパリ市民には有名である。
ちなみにモンマルトルと神戸北野は、友好提携地区である。