パンの会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パンの会(ぱんのかい)は明治末年に活動した若手美術家・文学者のグループ。西欧文化に憧れて、下町の西洋料理店に集まっては、酒を飲み、文芸談義を楽しんだ。
美術雑誌「方寸」を主宰していた洋画家石井柏亭、山本鼎、倉田白羊や、詩人の北原白秋、木下杢太郎らが意気投合し、日本にもパリのカフェのように、芸術家が集まり芸術を語り合う場所が必要だということになった。木下が苦労して会場を探し出し、1908年(明治41年)12月、隅田川の右岸の両国橋に近い矢ノ倉河岸の西洋料理「第一やまと」で第1回会合が開催された。「パン」はギリシア神話に登場する牧神で、1894年にベルリンで結成された芸術運動「パンの会」に因むものだという。
大川(隅田川)をパリのセーヌ川に見立て、大川近くの小伝馬町や小網町、あるいは深川などの西洋料理店を会場とした。高村光太郎や長田秀雄、吉井勇、谷崎潤一郎や永井荷風、上田敏や小山内薫、俳優の市川左団次・市川猿之助らも顔を出した。
会合の様子は木下の回想や詩(「食後の唄」)などに描かれている。酒好きの会員が多く、どんちゃん騒ぎになることもあった。一方、社会主義者の集まりと誤解され、刑事が様子を見に来たり、長田秀雄・柳啓介の「祝入営」の張り札に高村光太郎が黒枠を描き込んだことを「萬朝報」に取上げられ、反軍国・反政府の会として社会の注目を集めた事件もあった(「黒枠事件」、1910年11月)。
パンの会が続いたのは1911年(明治44年)頃までと短い期間だったが、自然主義に対するロマン主義的な運動として文化史上にその名を残した。ちょうど小山内薫の自由劇場(1909年)や雑誌白樺の創刊(1910年)など、文芸上の新しい動きが起こっていた時期であった。カフェプランタンが開店するのもこの頃のことである。