パーラ朝
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パーラ朝は、8世紀後半から12世紀前半までインドのベンガルとビハール地方を支配した王朝。
グプタ朝やヴァルダナ朝が滅亡して久しい8世紀半ばに、ベンガル地方の混乱を収拾する要請から、地方の名士たちによる公式な選挙で、ゴーパーラ(位750年~70年)が王に選出された。この王家の起源は不明であるが、ラージプートの王朝などのようにその祖先を神話や史詩の英雄にさかのぼらせていない点から、クシャトリヤでもバラモンでもなかったと推定される。ゴーパーラの父、シュリー・ヴァプヤタは、この混乱期に武力で小王国を建設した有能な武士だったようで、ゴーパーラは、これを受け継いで、安定した王国の建設に努めた。
ゴーパーラの子、ダルマパーラ(位770年~815年)は、8世紀後半に、ガンガー流域に有力な勢力が存在しなかったことに乗じ、カナウジまで進出し、北インドの4割近い地域を支配下に置いた。しかし、プラティハーラ朝のヴィツアラージャ(Vatsaraja ヴァトサラージャともいう。)の遠征軍に敗れて、北インドにおける優位を失った。その後、ビハールと東部ウッタル・プラデーシュがパーラとプラティハーラの国境線となった。なお、ダルマパーラは、熱心な仏教徒で、多くの僧院を建設し仏教を保護した。
次王デーヴァパーラ(位815年~54年)は、アッサム地方とオリッサ地方に勢力を拡大する一方、東進してきたプラティハーラのボージャ1世を破り、ボージャは、デーヴァパーラが亡くなるまで、東方遠征を控えるほどで、パーラ朝の力が健在であることを知らしめた。その後継者は、名将の誉れ高い従兄弟ヴィグラハパーラ1世(位854頃)であったが、その子、ナーラーヤナパーラ(位854年頃~97年頃)のために退位した。ナーラーヤナパーラは、プラティハーラ王ボージャ1世に圧迫されながらもビハールの主要部分をなんとか保持した。ラージャパーラの治世にプラティハーラは、ソーン川をわたって、ビハール西部のガーヤ地方を占領しますます圧迫を加えた。そのため、ゴーパーラ2世は、ラーシュトラクータ朝と結んで失地の回復に努めた。
10世紀に入ると、プラティハーラは弱体化し、分裂して、かっての力を失った。ラーシュトラクータ朝も南方のチョーラ朝との抗争及び10世紀後半には滅亡することになったため、マヒーパーラ1世(992年頃~1041年頃)には、一時的に圧力から解放され、ビハール地方での失地を回復したが、チェーディ地方に興ったカラチュリ朝に圧迫され、1020年ごろ北進してきたチョーラ朝のラージェンドラ1世に敗れた。その後は、ベンガルのセーナ朝に圧迫されて、まったく振るわず、12世紀半ばに、16代目の王マダナパーラ(位1130年頃~50年)を数えて完全に滅亡した。
パーラ朝は、仏教を保護し、当時の北部ベンガルには、ヴィハーラ(僧院)が多かったため、ビハールの語源となるほどであった。8世紀の後半にインド哲学の巨匠シャーンタラクシタと大密教行者パドマサンバヴァなどチベットへ仏教使節を派遣した。パーラ朝時代の仏教は、密教としての仏教がさかんでいわゆるタントラ仏教であったため、チベット仏教もその影響を強くうけている。また、芸術を保護したため、絵画、彫刻、青銅の鋳造技術が著しく進歩して、その美術は、「パーラ派」や「東方派」と呼ばれ、優れた技巧と典雅な意匠で知られる。仏教美術では、「パーラ式仏像」を生み出して世界的に有名である。
[編集] 参考文献
- 『アジア歴史事典』7(ト~ハ)貝塚茂樹、鈴木駿、宮崎市定他編、平凡社、1961年